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聞きたい

【昭和高校球児物語-前高 完全試合のキセキ-▶︎33】
高校2年秋-1

2023.04.04

【昭和高校球児物語-前高 完全試合のキセキ-▶︎33】
高校2年秋-1

進化続けた金属バット

昭和51~53年ころの野球道具事情をここらで記しておこう。この時点までの状況を記述し、以降は適宜、本文内で触れることにさせていただく。

まず、バット。既に金属バットになっており、川北たちが入部したころはイーストンというアメリカ製のいかにも鍛造金属のバットしかなかった。このバットが使い続けるとへたりが出てヘッド部分のプラスティックキャップが飛んでしまったりしていた。

1年春の大会ころにはミズノ社のダイナフレックスが出回り始め、中距離打者用のゴールドと長距離打者用のブラックグレーがあった。長距離打者用は重心が先にありグリップが細かった。

その後、横尾製作所のシルバードがでた。ダイナフレックスに比べると重厚感はなかったが軽く作られており操作性に優れていた。多少スイング時にしなる感じもあった。

▲前橋高が現在使っている金属バット

マエタカ野球部では中軸がダイナフレックス、他がシルバードの傾向がしばらくあった。

川北たちの代ではフォルムがタイカップ型で軽量なアライファルコンを最初に松本稔が使い始め、一時期ほぼ全員が「神様バット」と言って使っていた。みなが使うのでへたりが早く、一本しかなかったので追加をお願いしたがなかなかこなかった。

部のバットは不定期に購入されており、みなの希望を聞かれることもあったが、いつもいろいろな種類が混ざっていた。要は希望を言っても多少考慮されるくらいだったのだ。みなも「どうしてもこれを」まではなく、結構いろいろ試していた。

田口は珍しいグローブを愛用

グローブはミズノ社のワールドウィンが全盛であった。ほぼ全員が、硬式用の赤いバックカラーに白いカップの浮かぶ丸いエンブレムのついたグローブを使っていた。

ファーストミット、キャッチャーミットだけでなく内野手用、外野手用と別れており、ボールを受ける深さやグラブの指の長さが違う作りになっていた。他にもローリングス、ゼット、タマザワ、エスエスケーなどもあったが、マエタカ野球部では少数派だった。

セカンドの田口淳彦は珍しいハッチというセカンド用の小型で浅いグローブを使っていた。ナイスキャッチをもじって「ナイスハッチ!」と言っていたこともあった。

▲川北がサード転向後に使ったグローブ

▲前橋高が現在使っているグローブ

川北は1年の冬、年明けあたりからワールドウィン外野手用を使っていた。石井彰や茂木慎司といった同学年外野手と同様に小指用の指入れに小指と薬指の2本の指を入れ、中指、人差し指をひとつずつずらして薬指用、中指用に入れて人差し指用には指を入れず、球をすっぽり包み込んでとれるようなはめ方をしていた。

ただ、サードにコンバートされると、その外野手用のはめ方では球がグローブの深くに入り込んでしまうので握りづらい。コンバートされてからはすべての指を仕様通りのはめ方に戻していた。

スパイクはオニズカ社(現アシックス社)のタイガー・ゲーリックが全盛であった。樹脂製の靴底で金具をネジで交換できるもので、マエタカの固いグランドですり減りの速い金具を機動的に交換出来て便利であった。間違いなくほぼ全員が履いていた。

中心街のスポーツ店で購入

川北は前橋市内、アーケードのある弁天通商店街にあったイソベスポーツでいつも購入していた。右足靴先内側に「P皮」と呼んでいたピッチャー用の補強ゴムを釘で打ち付けてもらっていた。投球の際に最も擦れる個所の穴あきをこれで防ぐのだった。恐らく市内の野球部員のほとんどがイソベスポーツで購入していたのではないだろうか。

▲昭和にはにぎわった弁天通り。イソベスポーツの看板は残る

その後、国体の開催などもあり、市内のスポーツ店は大型化していった。いまでは当時の場所に店舗はなくなっている。時の流れを物語るひとコマだろう。大型店が出店したのも野球に限らず学生スポーツの盛り上がりが大きかったのだろうと思う。

ちなみに弁天通商店街には平日昼間、自習時間などにも行ったりしており、当時のマエタカ校長、岡本倉造先生が自転車で店舗前を通られることがあったりした。屈託なく「校長先生、こんにちわー」と挨拶をしたものである。おおらかで良き時代だったと思う。

最後に練習用ユニフォーム。ちょうどローリングス社のものが出回ってきたころだった。若干の伸縮性があり、木綿のガサガサ感やこわばり感はまったくないものだった。

▲石井彰選手のユニホーム表と裏

腰のあたりに丸で囲われたRの赤い文字エンブレムがあり、いかにも、いかにもであった。白のソックスもローリングス社の若干しっかり生地のものをみなが使い始めたころだった。このソックスにもRのエンブレムが大きくプリントされていた。

▲甲子園を目指し気合を入れる前橋高3年生

かわきた・しげき

1960(昭和35)年、神奈川県生まれ。3歳の時に父親の転勤により群馬県前橋市へ転居する。群馬大附属中-前橋高―慶応大。1978(昭和53)年、前橋高野球部主将として第50回選抜高校野球大会に出場、完全試合を達成する。リクルートに入社、就業部門ごとMBOで独立、ザイマックスとなる。同社取締役。長男は人気お笑いコンビ「真空ジェシカ」の川北茂澄さん。