interview
聞きたい
【昭和高校球児物語-前高 完全試合のキセキ-▶74】
高校3年夏-6
2023.06.20
様変わりしたマエコウと対戦
7月27日、準決勝。相手はマエコウ(前橋工業高校)となった。ここ2年間、公式戦で2度、練習試合で2度、計4度の対戦があったが1度も負けていなかった。
部員数、体格、体力、素質、練習量などすべてでマエタカは劣っていたのだが、試合に臨む気力、集中力、勝負力、そして強烈な野次によって薄氷の勝利を挙げてきていたのだった。
しかしこの夏、マエコウは変貌を遂げつつあった。下級生の台頭やチーム練度の向上ももちろんだが、監督が交代してチームカラーに変化が起きているように見えた。
4年前の夏の甲子園ベスト4の実績を背景とした威圧感あるチームから、好プレーに笑顔を交わしあうコミュニケーションのチームになっていたのだ。羽鳥真之新監督はベンチで笑顔を絶やさなかったし、各回の終了ごとに個々の選手に声を掛けていた。
また、背番号1のエースにずんぐりした3年生の石井善実投手を起用していた。強豪校で部員数も多いマエコウなので初めて見る投手がいてもおかしくはないのだが、石井投手の立ち姿やチームメイトとのやり取りを見ていると、体格や球威での威圧感はないが、彼がみなに信頼されている空気が感じられた。きっと下級生時代からまじめに取り組み、最後の夏に人間力で花開いた選手なのだろう。かつてのマエコウはそんな雰囲気を漂わせるチームではなかったのだ。
前章までにも書いたが、この時のマエコウには後にプロ入りする選手が2人(高橋忠一、高橋一彦)、大学野球・社会人で活躍する選手(高桑徹、谷中田優、腰塚和明、泉正雄ら)が複数おり多士済々でもあった。翌年以降、複数年にわたって甲子園に駒を進めるチームへとマエコウは変わり始めていたのである。
試合当日の朝、マエタカの校庭で練習を行った。試合前の学校練習はいつものことではあったのだが、川北の記憶には妙に鮮明に残っている。日差しが強かった。ノックで三遊間よりの打球に飛び込んだ際に左ひじの内側に擦過傷を負ってしまい血を止めるのに苦労した。
敷島球場に入ると準決勝第1試合、キリタカ(桐生高)対ノウニ(農大二高)の最中だった。マエタカナインは3塁側ベンチ裏通路に待機。試合は最終盤に差し掛かっていた。
ノウニが3塁側ベンチを使っており、小林敬嗣投手が通路に出て来てタオルで扇ぎながら涼んでいた。日差しの強さから顔は赤らみ、滝のように汗がしたたり落ちていた。
「やっぱさ、キリュウには勝てねえや」
「これで終わって、夏休みだ」
全力を出し切っているからだろう。サバサバとし、一言一言が力強かった。
「じゃあな。マエタカも頑張れよ」
帽子を振って、あみだにかぶり直して彼は試合終了の列へと向かって行った。
強烈な先制パンチ 3点許す
さあ、いよいよ試合である。準々決勝で負傷した堺晃彦の代わりのショートはやはり平松敏郎。打順は2番に7番から石井彰を上げ、7、8、9を細野雅之、平松、田口淳彦と組んだ。
先攻マエタカ。やはり堺不在の影があったのだろうか。勢いなく初回の攻撃は終わった。
1回裏、マエコウ(前橋工業高校)の攻撃。1番の増尾信行は左打席から三遊間真ん中を的確に抜いてきた。2番高桑がバントで1死2塁。
3番の谷中田は恐らくカーブを狙いすましていたのだろう、快打一閃、センターオーバーの3塁打となった。ここ2年間、中心選手としてマエタカの野次に屈して負け続けてきていたうっぷんを、渾身のガッツポーズと雄たけびで谷中田は表現した。
彼らが必死で勝ちにきていることがヒリヒリと感じられた。マエコウがプライドをかなぐり捨てて向かってきていたのだった。マエコウ内の盛り上がりもこれまでと違い、まるでマエタカとマエコウが入れ替わったかのようであった。
続く4番の高橋忠も出塁、5番の石井のセンター前ヒットで谷中田、高橋忠と2者生還。ノリノリの先制パンチで3点を奪取された。
かわきた・しげき
1960(昭和35)年、神奈川県生まれ。3歳の時に父親の転勤により群馬県前橋市へ転居する。群馬大附属中-前橋高―慶応大。1978(昭和53)年、前橋高野球部主将として第50回選抜高校野球大会に出場、完全試合を達成する。リクルートに入社、就業部門ごとMBOで独立、ザイマックスとなる。同社取締役。長男は人気お笑いコンビ「真空ジェシカ」の川北茂澄さん。