interview
聞きたい
【昭和高校球児物語-前高 完全試合のキセキ-▶75】
高校3年-7
2023.06.23
気勢上がらないマエタカ
どちらかと言えば、これまでのマエタカの試合は先制パンチを浴びせてノリノリの展開に持ち込み、松本稔が相手の焦りを利用して打たせて取るスタイルであった。
もちろん何試合かは、先制は許すが食らいつき、勝ちを意識した相手の後半の疲れに付け込んでの逆転勝利もあることはあった。
しかし、もはやこの試合は後者の展開に持ち込むしかない。大事なのは続けて追加点を取られないこと、かつマエタカが1点でも返すことだ。当たり前のことだが。
ではあるもののマエタカの攻撃は気勢が上がらず、3回の裏、マエコウの攻撃。またも3番の谷中田優のライト前ヒットから高橋忠一も続き、6番、腰塚和明の三遊間タイムリーで2者生還。0-5と離されてしまった。マエコウはますますリズムも雰囲気もノリノリになり、マエタカは重苦しくなっていった。
中盤、2死ランナーなしから川北は選球を重ねてアウトコースからのカーブをサードの頭越えのレフト前に運んだ。自分がやれることをやるしかないと集中できた。マエコウのファーストは主将でもある高橋忠である。
「上手いもんだねえ、いやあちゃんと狙って、絞ってねえ…」
高橋忠に話しかけられ、褒められた。びっくりした。マエコウはそんな会話をするチームではなかったのだ。
「いやあ、俺はあそこしか打てないんさ」
こちらの返事のほうがどぎまぎしておぼつかなかった。
「ちゃんとやれるのが凄いよ」
「ほんっとに、あそこしか打てないからさ」
これまでサイボーグのように感じていたマエコウの選手達が同じ高校生に変わった。高橋忠の笑顔の歯が白かった。
松本 流し打ちでホームラン
得点までの道のりが遠く感じた6回表、マエタカ2番、石井彰の出塁から打席に4番松本。練習で見みせた「じゃあ流し打ちなあ~」でライト側校舎2階にライナーを叩きつけたスイング。ライトスタンドにライナーで打球が飛び込んだ。ツーランホームラン。
右打者の松本がライト中段にライナーでスタンドインさせたのだ。マエタカのチームメイトは「やってくれた感」で大喝采、スタンドも大拍手で松本を迎えた。
これで2-5。さあ追撃、とならなければいけないのだが、どことなくこの時は違った。その時のみなの感覚を改めて確認してはいないが、「自分たちのプレーをして意地は見せよう」と、すでに勝敗を度外視していたように思う。
かつてのマエコウに抱いていた悪の帝国に挑むような闘争心は湧き上がってこなかった。ホームランを打った松本も連日の投球で疲れ切っており、ダイヤモンド一周をとぼとぼと回っていた。
そして、表情には「やるだけやった」爽やかさがあった。春の関東大会決勝でホームランを放ったキリタカの木暮洋がカモシカのようにダイヤモンドを駆け抜けた姿とは対照的だったのだ。
6回裏、マエコウに1点を返された。2-6。この1点は精神的に大きなダメ押しともなった。
最後の打席 集中した打席
7回表の打席。川北はすべてを出し切って出塁しようと考えた。そのことのみに集中しようと。初球ボール。ワンボールからセーフティーバントの構えでサードの腰塚を前進させ、バスターで三遊間への強いゴロ打ちを狙った。
投手のモーションに合わせてセーフティーバントの構え。フットワークの良い腰塚が猛ダッシュしてきているのを視界の隅にとらえた。絶好の真ん中高めのストライク。よし! バスターバッティング!
しかし打球はバックネットへ真後ろファウルチップ。若干ボールの下を叩いてしまった。ショートの高桑徹が腰塚にやみくもなダッシュはダメだと注意していた。
ワンストライク・ワンボールから次はボール。ワンストライク・ツーボール。再度仕掛けるには絶好だ。さっきは三遊間方面への仕掛けだったので、ここは一塁側への仕掛けを決意した。
セーフティーバントを一塁ライン際に転がすかと思ったが、ここでこのゲームのキーマンとなったセカンド谷中田をへこませたくなった。シートノックやプレーを見ている限りセカンドの名プレイヤーではあるが、前へのダッシュにのみ付け入れそうな隙を感じていた。
しかも一塁ライン際転がしは左投手には有効だが右投手の石井善実にはどうなのか、もあった。よし、セカンド前にプッシュバントだ。決めたっ。
投球はおあつらえ向きのインコースのストレート。投手の横を抜いてセカンド前に転がるように念じてプッシュ。だが、わずかに角度が緩み、投手寄りに。残念。ピッチャーゴロとして対応できる格好になり、川北の乾坤一擲の駆け引きは失敗に終わった。
わずか4球の打席だったが、これほど考えて動いた打席は今までなかった。過去の打席すべてにおいてもそうできればよかったのに…とも思った。
得点差は変わらず9回となった。マエタカの攻撃も2死。バッターは8番の1年生平松。彼は自分が最後の打者にならないよう必死に食らいついていた。フルカウント。高目のストレート。平松のバットは空を切った。ゲームセット。
川北はベンチ前から膝に手をついて俯いている平松に歩み寄り、彼の背中をゆっくりと叩いた。心も頭も平穏だった。夏の日差しも傾いていた。
試合終了の挨拶。喜び合うマエコウ選手たち。高橋忠に「明日も頑張れよ」と伝え、1塁ベンチ前の羽鳥真之監督に挨拶し、3塁ベンチ前に戻ろうと歩を進めた。
スタンドに向かって整列し「あしたっ!(ありがとうございました)」。
いつもその後は「キャッチボール!」とクールダウンの指示をみなにするのだが今日は…と思ったが、視線の先で田中不二夫監督が川北を見て右手でキャッチボールの仕草をした。すかさず、声を掛けた。
「キャッチボール!」
「いつも通りに」が田中監督のメッセージだと感じた。川北のキャッチボールパートナーはファーストの佐久間秀人だ。佐久間の顔を見るとやはり晴れ晴れしていた。今日の日焼けで赤みがかった彼の顔をみて、少しこみ上げるものがあった。
こんな風に彼とキャッチボールをすることはもうないのだろうと。これまでどれほど彼とキャッチボールを重ねて来たのだろうと。
クールダウンキャッチボールの横で明日に向けた試合終了後の球場整備が進む。パネル式のスコアボードの得点表示が一つずつ裏返り、続いて両チームのオーダー表が1人ずつ裏返って消えていく。1塁側のマエコウのオーダー表がまず消え、マエタカのオーダー表が9番から順に消える。
最後に「5 川北」の表示が裏返って消えるのを見届けることができた。すべて消えた。終わったのだ。