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【昭和高校球児物語-前高 完全試合のキセキ-▶73】
高校3年夏-5

2023.06.17

【昭和高校球児物語-前高 完全試合のキセキ-▶73】
高校3年夏-5

苦しみながらベスト4進出

夏の大会の開会式は例年通り前橋の県営敷島球場で行われた。真夏の晴天の割に比較的爽やかな青空だった。球場外で入場行進前に各校並んで待機していた。この時のことで、川北は今でも悔いていることがある。

川北の父親と川北との微妙な距離感は高2冬編で触れた。チーム内での息子の立場よりは、息子に相談された嬉しさを酔った勢いで言わずにおられなかった父親。そのことを自分がどう思ったかを父親本人に直接ぶつけられなかった息子。この距離感は川北が実家から自立し、父親を外から客観的に眺められるようになるまで続いた。

この時、川北の父親はチームが並んで待機しているところを写真に撮るべくカメラを何度も向けてきていた。その度に川北はそっぽを向いた。

今でもアルバムに残っている写真は、下級生の竹井克之たちがきちんとカメラ目線なのに、川北だけが後ろを向いている。父親はどんなに悲しかっただろうか。ただ、ただ恥ずかしい。その父親は後に川北が勤務先単身赴任中に急に亡くなった。この件を謝ることはできていない。

 

7月22日、マエタカの初戦、2回戦。高崎の城南球場。相手は伊勢崎東高校(現伊勢崎高校)だった。何度か練習試合対戦もあり、堺の中学同級生がいるチームだった。滑り出しの緊張はあったが8-1、コールド勝ちでスタートを切れた。晴れて日差しのきつい中、体力的にきつい分、余計な気を回すことなく野球に集中することができた。

翌7月23日、3回戦。同じく高崎城南球場。相手は中央高校(現中央中等教育学校)。ここも練習試合をしたことのある相手であった。前橋市から進学した選手が多いチーム。この試合は5-0。完封勝ちではあったが、エースの松本稔のためにはコールド勝ちで体力を温存させてあげたかった。

なお随分先のことだが、松本が筑波大の大学院を卒業し、教師として最初に赴任することになるのがこの中央高校で、彼が野球部監督として中央高校を夏の甲子園初出場に導くことになる。

その後、松本は母校マエタカの監督として甲子園出場も果たし、再度、中央中等教育学校に赴任した。少し縁のある学校といえた。

ピンチ 堺にアクシデント

7月25日、いよいよ夏の大会準々決勝、ベスト8の対戦となった。ここから前橋の敷島球場。相手は太田工業高校であった。

前年秋の大会の3回戦で対戦し、一時は0-4とリードされ、コールド負けかもと追い込まれた相手である。その後、何度か練習試合もしていた。負けた試合もあった記憶だ。

前年秋と比べるとチームとしての練度も向上している。俊足機敏で小技で攻めてくる1、2番の左打者。野球をよく知る中軸、しぶとい下位打線。落差のある緩いカーブとストレートのコンビネーションに優れ、守備、牽制も上手い左腕投手。油断できない相手であった。

▲内野の要、器用な2番打者の堺が右手人差し指を負傷する

先攻マエタカ。1回の表、先頭の川北は高いバウンドのショートゴロ。ショート前進のシフトをひかれていたが、バウンドが高かったことが幸いして内野安打となった。

さあ、いつもの攻撃。今日は…サインは送りバントだった。恐らくマエタカがこの場合ヒットエンドランを多用することを十二分に読まれている相手であり、牽制の上手い左投手だったがゆえの作戦選択だったろう。

しかし、ここでアクシデントが起きてしまう。2番、堺晃彦がバント時に右手人差し指の指先を投球とバットで挟んで潰してしまったのだ。

プレーそのものがファウル扱いとなることは何も問題ないが、もう堺は打席でバッティングができる状態になく、もちろんボールを投げることも見込めなかった。

すぐに治療に向かわせる必要があり、この打席から1年生の平松敏郎への交代となった。正直、浮足立った。平松のショート守備は普段通りであればまったく問題ないレベルなのだが、打者としては入学間もない1年生相応であった。それはやむを得ないものの、チームとして攻撃力の大幅ダウンは免れようがなかった。

まして、堺はゲームメイク上のチームキーマンの1人であり、常にこの1年間一緒に戦ってきた大事なピースだった。怪我の程度にもよるが、この先、堺抜きで戦わなくてはならないことはベンチの空気を重苦しく不安なものにした。どうなるのかと。

いきなりのデビューとなった平松は何とか送りバントを決めた。相澤雄司の四球で1死1、2塁。4番、松本稔の大チャンスとなりながら、痛烈な当たりのサードゴロゲッツーで消え失せたことも、試合状況の腹落ちの悪さとなった。

それでも3回表、2死から川北がショートゴロエラーで出塁。平松敏郎四球で1、2塁。相澤雄司のライト前に落ちる二塁打で川北生還。先制した。

2死ながら2、3塁。バッター松本稔でたたみ掛けるチャンスだったが、痛烈なセカンドゴロでチェンジ。どうも松本の打棒にツキがない流れであった。1-0。

▲相澤のファインプレーでピンチを脱する

しぶとい太田工高の反撃

3回までは3人ずつで片づけられた太田工高。4回の裏に反撃に出た。しぶとい1、2番が四球と送りバント野選で生き、3番送りバントで1死2、3塁。4番にはスクイズ警戒で四球。1死満塁となった。

5番打者、スクイズファウルなどからカーブを空振り三振。この空振り時に投球が打者に当たりバックネット方向に。すわ同点!と思ったが打者に当たった時点のボールデッドでことなきを得た。

2死満塁。この試合、太田工業高の6、7、8番打者はバスターヒッティングスタイルで食い下がってきていたのだが、その6番打者。快打一閃、目の覚めるライナーをライト前に放たれた。が、あらかじめ前進していた相澤がさらに前進ダッシュしてこれを好捕した。背中に冷や汗が伝い、ゆっくりと肺から息が漏れた。

さらに太田工業高、5回裏の攻撃。1死後、8番打者がバスターヒッティングからセンター前へ詰まったヒット。本当にしぶとい。

9番の投前バントは2塁で封じたが、しぶとい1番打者がセーフティーバント狙いからバットをひいて高野昇がパスボール。1死2塁。

ここで1番はキャッチャー前にセーフティーバント。捕らなければ恐らくファールだったが焦った高野が1塁へ。ギリギリセーフ。2死1、3塁。隙のないスモールベースボールでジワジワと押し込まれ、またまた緊迫したピンチとなった。

▲川北の素早いバンド処理で相手に得点を許さない

打者はこれまた小技の上手い俊足の左打者。川北は3塁走者の牽制で3塁につきながらセーフティバントを警戒していた。「来た!」。絶好のボールの勢いを殺したバントが3塁線に転がされた。思い切りダッシュ。低い姿勢で素早くボールを握り、渾身の力で一塁へ投げた。指先にきれいに掛かった送球、間一髪アウト! ここでもゆっくりと肺から息が漏れた。

中盤に続いたピンチを何とかしのぎ、試合は1-0のまま後半へ。

7回表マエタカの攻撃。1死から石井彰、細野雅之が連続四球で1、2塁。田口淳彦は送りバントをファウルミスして追い込まれたが、スリーバントをうまく決めて2死2、3塁のチャンスとなった。

1番川北。外角の緩いカーブと外角高めの力を入れたストレートのコンビネーションでフルカウント。6球目は外角高めにストレート。「高い!」と判断したが判定はストライク。三振でチャンスを逸した。

次打者が堺であれば選びにいく格好でよかったが、平松であったのでそもそもストライクゾーンを広げておかなければならないはずだった。次打者が堺であることに知らぬ間に慣れてしまっており、打席心理の切り替えをきちんと行えていなかった悔いを残した。

▲8回の裏、畳みかける攻撃で貴重な2点を加える

7回裏は何とか三者凡退で抑え、8回の表、マエタカの攻撃。平松が1、2塁間を抜いて公式戦初安打。相澤のスリーバントはキャッチャー前に転がり、1塁を駆け抜けてセーフ。無死1、2塁。

ここで4番松本。この日の打撃のツキのなさを自覚していたのだろう。バットを半握り短く持って振り抜いた。レフト線ギリギリ、ラインの白い粉の舞ったライナーの2塁打。ようやく1点追加。

さらに無死2、3塁で5番佐久間秀人。こうなると佐久間得意のイケイケである。初球をライト前ヒット。さらに1点を加えて3-0。しのぎにしのいで、何とかかんとか追加点をもぎ取った。

緊迫した攻防はそのまま最終回へ。松本は時折サイドハンドからの投球も交えながら力投していた。力投せざるを得ない展開だった。九回裏2死から5番の大柄な左打者にレフト線を抜かれた。2塁打。

続く6番打者は例のバスターヒッティングでセンター前へ。セカンドランナーは無理せず2死1、3塁。しぶとい。本当にしぶとい。

7番打者もバスターヒッティングの構えから快打一閃、ライト前へ強烈なライナーを放った。「あっ!」と思いながら打球の行方をみなが目線で追った先にライトの相澤が弾丸のように疾走して飛び込んできた。キャッチ。縮み上がった胸がゆっくりと呼吸を取り戻した。勝った。3-0、何とかかんとか勝った。

かわきた・しげき

1960(昭和35)年、神奈川県生まれ。3歳の時に父親の転勤により群馬県前橋市へ転居する。群馬大附属中-前橋高―慶応大。1978(昭和53)年、前橋高野球部主将として第50回選抜高校野球大会に出場、完全試合を達成する。リクルートに入社、就業部門ごとMBOで独立、ザイマックスとなる。同社取締役。長男は人気お笑いコンビ「真空ジェシカ」の川北茂澄さん。