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聞きたい

【昭和高校球児物語-前高 完全試合のキセキ-▶︎45】
選抜甲子園-1

2023.04.19

【昭和高校球児物語-前高 完全試合のキセキ-▶︎45】
選抜甲子園-1

前橋駅で出陣式、いざ甲子園へ

3月、春休み入りくらいだったろうか。甲子園へ向けて出発した。前橋駅前でちょっとしたセレモニーがあり、「地元で培った練習の成果を思い切り出し切ってきます…」と挨拶をした記憶だ。

▲前橋駅前での出陣式で挨拶する岡本倉造校長

▲ナインを代表して健闘を誓う川北主将

列車に乗り込んで出発を待っていると、川北と田口淳彦の中学時代の野球部顧問、大宮正幸先生が車両に乗り込んできた。

「えっ?」と思ったが、先生は松本稔の前に来て、「甲子園での一球目は必ずバックネットにぶつけた方が…」的なことを一方的に話してから、 「じゃあ。川北、田口、頑張れよ!」と去っていった。身近だった生徒が甲子園に行くことをわがことのように思っていただいていたのかとありがたかった。

実は選抜出場決定後に大宮先生から中学校内向けの広報誌に寄稿を依頼され、川北と田口は文章を書いていたのだが、どちらかと言うと照れと微妙な年頃の反抗心から、おちゃらけて挑戦的な文章となっていたのだ。そんなこともあって微妙な申し訳なさもあった。いまとなっては恥じ入るような過ちも随所にあったのである。

▲応援団のエール。手前は鼓手・大畠裕之

▲PTA会長の音頭で万歳三唱

▲両毛線のホームまでファンでもみくちゃ

▲石井彰の後輩も激励に駆け付けた

▲寄せ書きした日の丸を掲げるファン

甲子園仕様のPL学園球場

マエタカ野球部の甲子園遠征は二段構えとなっていた。新幹線、バスを乗り継いで、当初は1次キャンプ地的な大阪、富田林市に向かった。富田林市と言えば、言わずもがなのPL教の本拠地で、当時の高校野球の超名門、PL学園高校がある。

このときの選抜甲子園にも出場が決まっていた。しかも押しも押されぬ優勝候補であった。

事実、この代のPLは春、甲子園ベスト8。後に広島で活躍する西田真二(当時は投手でもあった)、阪神の木戸克彦、日ハムで投げていた金石昭人、1学年下に広島とヤクルトで打棒を振るった小早川毅彦がいた。何よりもこの年の夏には「逆転のPL」となって全国制覇を成し遂げるチームであった。

マエタカは1次キャンプとしてPLの合宿所に泊まり、グラウンド、室内練習場をはじめとする施設を借りることになっていた。どうしてそんなことになったのか経緯はまったく分からない。

甲子園の試合前日には応援団や吹奏楽部員も前乗り込みでPLに世話になったと後に聞いた。きっと全面的に協力をいただく話となっていたのだろう。感謝感謝であった。

ただマエタカ野球部員はまず、PLランド敷地内にある大平和記念塔、180㍍のPLタワーに圧倒され、練習施設に圧倒された。

グラウンドは何面という表現では収まらない。広場的なスペースを含めて芝生敷の広大なものがあり、メインの野球部専用球場(球場である!)はというと、東西南北の向きから、フェンスまでの距離から、マウンドの傾斜、芝生、土に至るまで甲子園球場と一緒と聞いた。

▲甲子園と同じ規格だったPL学園高校の専用球場

当時、甲子園球場は外野にラッキーゾーンを設けており、その部分のフェンスが網で、網の上部が黄色く塗られていたのをご記憶の方もいるだろう。PLのメイン球場もまさにそうなっていた。

センター後方、球場スコアボードにあたる位置に合宿所が建っていた。本当かどうか記憶も定かでないが、ファウルグラウンドの広さ、ベンチの配置、座席、深さまで甲子園と一緒と聞かされた。それが本当であれば、彼らは毎日甲子園球場で練習しているようなものなのだった。

さらに室内練習場。プルペンスペースが3列並んでおり、マシンが2台あった。各スペースは天井から下がった網で区切られており、同時に3人が投球練習なりバッティング練習なりできるようになっていたのだ。室内で、である。

初日は雨で、広いテントのようなスペースで体をほぐす程度の練習をまず行った。途中で両校選手の顔合わせ的なものとなった。PLの選手の人数が余り多くないなと思っていたところ、1学年15人程度の選抜精鋭主義なのだと聞いた。

あの木戸が「目指すところ一緒」

引き締まって、大柄で精悍な選手ばかり。全国的にも有名な主将の木戸がはにかみながら挨拶した。

「こんにちは…。お互い目指すところは一緒ですから、存分に練習してください。悔いなく頑張りましょう!」

非常に堂々とした立派な挨拶だった。

一方、マエタカ、川北は田舎者丸出しのしどろもどろ。

「立派な施設を使わせてもらうんで…」

そもそもが、PLの選手に「目指すところは一緒」と言われた瞬間に「いや、違うし」と思ってしまったことに加えて、豪華な練習施設に圧倒されて飲まれてしまっていたのだった。

その後、室内でマシン打撃をし、マエタカ校庭のビニールハウスとPL室内練習場の違いを堪能させていただいた。

専用メイン球場での練習も舞上がっていた。マエタカがフリー打撃、シートノックを行っている間、PL部員たちは球場周りをずっとランニングしていた。結構な長時間だったと思う。

マエタカが練習を終えてやれやれと思って引き揚げかけると、彼らが球場を使うべく中に入ってきた。その日、マエタカナインはそこそこ動けていると思っていたのだが、「やっぱりまだ移動の影響かね。今日は動きが悪かったね」と言われてしまい、実は結構ショックであった。さらに、ずっと走っていた彼らの、グラウンド内での動きの軽快さにはモノの違いを感じざるをえなかった。

かわきた・しげき

1960(昭和35)年、神奈川県生まれ。3歳の時に父親の転勤により群馬県前橋市へ転居する。群馬大附属中-前橋高―慶応大。1978(昭和53)年、前橋高野球部主将として第50回選抜高校野球大会に出場、完全試合を達成する。リクルートに入社、就業部門ごとMBOで独立、ザイマックスとなる。同社取締役。長男は人気お笑いコンビ「真空ジェシカ」の川北茂澄さん。