interview
聞きたい
【昭和高校球児物語-前高 完全試合のキセキ-▶︎53】
高校3年春-2
2023.05.01
4度目の桐高戦、またも涙
さあ、決勝戦となった。決勝戦の認識よりは練習試合も含めて桐生高校(キリタカ)と4度目の対戦との感覚の方が強かった。
ここまで3戦全敗。勝ちたい、勝てる、などよりは全力でぶつかる思いで臨んだ。
5月5日、この日も高崎城南球場は汗ばむような晴天。観客は満員御礼で札止めであったらしい。
選抜甲子園ベスト4のキリタカと完全試合のマエタカの試合である。伝統ある県立高同士の対戦、盛り上がらないわけがなかった。
当時の城南球場外野フェンスは壁ではなく、すべて地面からの網となっており、フェンスと芝生席の間に地面レベルで通路があった。その通路にまで人が座っていたので、パッと見た際にはインフィールド内に観客が座っているようにも見えた。もちろん実際は網の向こう側であったが。
試合前からのザワザワ感は甲子園での福井商業高校戦に近いものがあった。ただし、あの時と異なるのはマエタカが挑戦者魂に満ちていたことだろう。
先攻マエタカ。1回の表。木暮洋は制球が若干不安定だった。川北は四球で出塁。さあ、今日はどういくか。一球は様子見。さて、やはりヒットエンドランのサインが出た。
木暮は左投手でかつ牽制が上手い。あえてリードを短くしてヒットエンドランのスタートに意識を集中させていた。そこへ通常とは違うゆっくりした逆動作の動きでの牽制球。
スタートすることに意識を偏らせていた川北は右足に体重が乗り、たたらを踏んで見事に引っ掛かった。慌てて帰塁しようとしたが既に時遅く、ファーストの阿久沢毅の膝に顔をぶつけたところにしっかりタッチ。「アウト!」。塁審のコールを頭上に聞いた。
「うわっ、やっちまった」。3塁側ベンチにトボトボ戻る際には、恥ずかしくて満員のスタンドに顔向けできなかった。落胆のザワザワが肩に重かった。
松本のタイムリーで同点に
剛の木暮洋、柔の松本稔。試合は緊迫感を持って進んだ。中盤5回の裏、キリタカの攻撃。2死ながら2塁にランナーがいた。
九番、間弓実の打球は弾みながらセンター前に抜けようかという当たり。セカンド、田口淳彦が懸命に飛び込みながら差し出したグローブが弾かれた。1対0。キリタカに先制された。
次の6回表、マエタカの攻撃。1番の川北からだった。フルカウントからインコースにキレッキレのストレート。手が出ず万事休したかと思いきや「ボール!、フォアボール!」。ストライクと言われても文句のないほど際どいコースであった。
さあ、反撃と思いきや、木暮洋は渾身の投球をみせ、堺晃彦、相澤雄司が打ち取られた。
2死ながらバッターは4番の松本稔。マエタカで唯一、木暮と真正面から勝負のできるバッターである。
1塁上の川北もここ一番の勝負結果を待つ格好となった。ここが試合の勝負所とみたのだろう。木暮の投球フォームの躍動感も凄みを増していた。
投げ込んだ渾身のアウトコース低めのストレート。松本のバットが一閃、ミートされたボールはライト線に強烈なライナーとなって弾き飛んだ。
後のインタビューで松本は「振り遅れたのがたまたま飛んだだけ」と彼らしく表現していた。ちなみに同じインタビューで木暮は打たれた球を「アウトコース、ストレートです。」とはっきり即答していた。よほど悔しかったのだろう。
川北は打球も見ずに渾身の力で走った。2塁を蹴り、3塁コーチャーを見ると、左手を口にあてて右手を大きく回し続けている。
「テイクホーム!テイクホーム!」。ランニングコースが膨らみ過ぎないよう踏ん張りながら3塁も蹴った。ホームへの最短距離を真っ直ぐに走る。線上に間弓捕手がいた。思い切りぶつかっていった。間弓捕手は高くそれた返球を体を伸ばして取りに来ており、川北とぶつかって捕球はできなかった。ホーム手前での激突劇だったが川北はホームイン。同点。
しかし、松本は悪送球間に3塁から本塁をうかがい3塁でタッチアウト。残念ながら同点までとなった。ホームへのカバーリングといい、走者の進塁をウォッチする視野といい、さすがにキリタカ、隙はなかった。
その裏、キリタカの攻撃。しぶとく2塁にまでランナーを進めたが2死。バッターは原沢芳隆。ショートを守る2年生だ。小柄で細身。どちらかといえば守備の人と認識しており、丁寧に対応すれば抑えられる…と思ったが、その丁寧さが仇となった。
アウトコース低目ヘ落ちるカーブをしぶとくライト前におっつけられてしまった。つかの間の同点、1対2とまた引き離された。
その後の攻防は緊迫したが双方詰めを欠き、最終回マエタカの攻撃。3番、相澤雄司からだったが、ここぞと力投する木暮に三者凡退に封じられた。
1対2。秋に続いて決勝でキリタカに敗れた。閉会式も秋と同様、優勝旗はキリタカに渡り、マエタカは準優勝の賞状のみ。
川北は凄く悔しいと感じるかと思いきや、不思議と結果を淡々と受け止めている自分に気がついていた。結果はどうあれ「やり尽くした」感があった。
もちろん試合中にミスもあったし、ここに至るまでの間に極限の準備をやり尽くしたわけでもなかった。が、良いことも悪いこともやれることはやり尽くしたと感じたのだ。
阿久沢がマエタカに来ていたら
この試合中に堺晃彦と阿久沢の間で印象に残る会話があった。阿久沢が2塁ランナーの時に近寄った堺がグラウンドを足でならしながら、しみじみとこう言った。
「お前がマエタカに来てたら、いまごろキリタカにも勝ててただろうになあ…」
「そーいうこと言うなよ」
阿久沢が結構ムキになって答えていた。阿久沢は高校入学前、マエタカに見学に来て、入学するとの情報もあったのだ。
このころには両校の選手間は顔なじみの親しさも出て、それぞれ会話するような関係になっていた。それにしても言わずもがなのやり取りではあった。
この2人はその後、共に地元の群馬大学へ進み、準硬式野球部でチームメイトとなる。一緒に戦うことは実現することになるのだ。この時はそんなことは知るよしもなかったが。
記録を見るとキリタカとの決勝戦の翌日、東京の関東第一高校がマエタカまで練習試合に来て対戦している。当時はまだ無名の学校だった。さすがに連投となるので松本稔を先発させずに竹井克之、石井彰を登板させた。
関東第一高校の部員たちは目をキラキラさせて物おじせずに積極的にプレーしていたことが印象に残っている。試合はその勢いに押されて敗れた。
唯一、遠来のチームに敬意を表して松本を9回のみ登板させ、3者三振で貫録は保てた格好であった。
関東第一はその後、実力校となって甲子園常連の仲間入りしていくことになるが、あの「ノビノビ感」「イキイキ感」であれば、さもありなんと思ったものである。
かわきた・しげき
1960(昭和35)年、神奈川県生まれ。3歳の時に父親の転勤により群馬県前橋市へ転居する。群馬大附属中-前橋高―慶応大。1978(昭和53)年、前橋高野球部主将として第50回選抜高校野球大会に出場、完全試合を達成する。リクルートに入社、就業部門ごとMBOで独立、ザイマックスとなる。同社取締役。長男は人気お笑いコンビ「真空ジェシカ」の川北茂澄さん。