interview
聞きたい
【昭和高校球児物語-前高 完全試合のキセキ-▶︎21】
高校1年冬-2
2023.03.16
難しいティーバッティング
ティーバッティングも冬メニューの中核をなしていた。バックネットなどの防球ネットにシート生地を結んでつけ、そこに向かってトスしてくれた球を打つ。あるいは金属スタンドにゴム製の球置き台があり、そこに置いた球を打つ格好のものだ。
素振りよりも実際の球をミートして押し込む感覚を体感できるので、みな熱心に木製バットで取り組んでいた。
人がトスしてくれる際にはトスの最高点をミートポイントとして「打つ」よう、タイミングを計ることを習得する狙いもある。
川北はこれがうまくできなかった。
野球を始めて以来、小学生の時からの打ち方ではいつもバックスイングを終わらせた構えをしていたのだ。なのでスイングはコンパクトだったが、静止しているがゆえに球を待つ「間」をうまく作れず、しかもその間に「力み」を生じやすかった。
どうしても最高点ではなく、最高点から落ち始めるところのタイミングで打つ癖が体に染み付いてもいたのだった。このことには早くから気がついていたので何とか体内のタイミングを是正すべく練習に取り組んだ。
が、結局ティーバッティングという練習メニューでは表面的に問題なく打てるようになったのだが、微妙な体内タイミングのズレ感はなくすことができなかった。
この場を借りて野球少年及びコーチにアドバイスするとすれば、幼少時からフラットに立ってピッチャーモーションの「動」に対してバックスイングの「動」で「間」を合わせることの感覚を染み込ませることをやるべきだと申し上げておく。
ついでに幼少時からの留意事項をもう一つ。球を塀などに投げてぶつけ、跳ね返らせて捕ることはすべての野球少年がやっていると思う。
その際、塀との距離に注意を払っていただきたい。跳ね返ってきた球をショートバウンドかバウンドの最高点からの下がり際で捕れるような距離での実施を習慣づけることをお勧めする。
というのも、川北は家の前の道路で自宅の塀に球を投げて跳ね返ってきた球を捕ることを、小学3年から気が遠くなるほどの回数やってきていた。いつも投げた球が跳ね返ってワンバウンドした後のハーフバウンドで捕球していた。
そうなのだ。ゴロをハーフバウンドで捕球することが体内リズムに染み付いてしまっていたのだ。本稿後段でサードを守ることになった際にこれには最後まで苦労することになった。
ハーフバウンド捕球処理には強かったとはいえるのだが、そこはイレギュラーしやすく、捕球ポイントとしては球の勢い方向が散漫で弾きやすい。
ゴロの捕球は出来るだけショートバウンドかバウンドの最高点下がり際での捕球が安全だし、スローイングに移行しやすいのだ。
そうやって捕球できる場所に足を使って体を運ぶことを覚えるにも、「壁当ての壁との距離」は大切なものであるといまさらながら思う。
何気ない習慣が固定的な体内リズムを染み込ませてしまい、「動」や「間」への対応が難しくなることもある…が川北の主張だ。もっともそこは「天性」の領域なのかもしれない。その検証は次世代に委ねたいと思う。
アトリックス派、ニベア派…
寒く乾燥が激しくなるとバットスイング用に厚くした手の皮がヒビ割れやすくなる。繰り返してきた素振りでできたマメにマメが重なったものだが、ハンドクリームでのメンテナンスが欠かせないことも学んだ。体のパーツを作り、メンテナンスする習慣が身についたとも言える。
川北の右手指は中学時の交通事故もあって中指が人差し指より1関節分長かった。人差し指が1関節分短いという方が正確か。
なので球を投げると中指の指先左側にマメが出来やすく、中指の爪の切り方、液体絆創膏の塗り方、マメを針でわざと潰し重ねて調整する指先皮膚のしなやかで硬い状態の作り方にコツが必要だった。
こういったものはそれぞれ個々人が自分の状態と経験を経て習得するものだろう。部員間でそういったことを共有することはあまりなかったが、ふとした際にハンドクリームのアトリックス派、ニベア派、オロナイン派、桃の花派などが判明したりした。
先輩から貴重なアドバイス
2年生センターの宮内武と校外ランニングを長く一緒に走る機会があった。
威圧的な前橋四中出身でもあり、先輩にもOBにも食って掛かるような強気な勝負師で、ムラッ気はあったが試合中のポイントどころでファインプレー、好プレーを見せるプレイヤーだった。
一方で照れ屋でもあり、自分から他人にアドバイスをするようなことはあまりなかったのだが、こんなアドバイスを受けたことがあった。
「おめーは、もう少しランニングの時の腕の振りを大きく、キレイに振らないと」
「え、そうですか。いまは変ですか?」
「変じゃあねーけど、大きくキレイに振ることで肩の周りや胸、肩甲骨周りの鍛錬になってケガの予防にもなるんだよ。おめーは腰をやってるしな」
そういえば、どちらかというと小柄な宮内はいつも大きく腕を振って走っていた。まさかそんなことを意識して走っているとは思っておらず、ありがたくそのアドバイスに従うとともに、改めて各人の意識の高さに感じるものがあった。
前向き、話好きな佐久間
練習終了後はいつも、途中まで方向が一緒の佐久間秀人と自転車を並べて帰っていた。佐久間はまた相澤雄司とは種類の違う強気で前向きなキャラクターだった。
自分のことを話すのが大好きであり、チャンス時の打席では「ヒーローになる事しか考えてないよ!」とのことだった。
部員の中では、野球に対して一番シンプルに取り組んでいるように見えた。「やるっきゃねーよ」「打つしかないよ」と迷いを感じさせる要素が少なかった。
帰宅路は2人で前橋駅方向に向かう「ななめ道路」を進み、両毛線線路手前で西へ。前橋刑務所前を通って利根橋たもと近くの佐久間の家の前で分かれた。
佐久間は当時、週刊少年漫画『チャンピオン』を毎週買っており、『ドカベン』や『こまわり君』の最新刊を部員に提供してくれていた。
小説では横溝正史の金田一シリーズの人気が高く、佐久間はそちらも熱心な読者であった。『本陣殺人事件』『獄門島』などを帰宅時にうれしそうに語ってくれた。
「…釣鐘は~、実は二つあったんですねえ~…」
『獄門島』での金田一耕助のセリフを、俳優の石坂浩二をまねて語っていた。なかなかに話は上手く何話にも分けて語ってくれて、帰宅道程が飽きることはなかったといってよい。『悪魔の手毬唄』『悪魔が来りて笛を吹く』『女王蜂』と次々に聴いた気がする。
かわきた・しげき
1960(昭和35)年、神奈川県生まれ。3歳の時に父親の転勤により群馬県前橋市へ転居する。群馬大附属中-前橋高―慶応大。1978(昭和53)年、前橋高野球部主将として第50回選抜高校野球大会に出場、完全試合を達成する。リクルートに入社、就業部門ごとMBOで独立、ザイマックスとなる。同社取締役。長男は人気お笑いコンビ「真空ジェシカ」の川北茂澄さん。