interview
聞きたい
【昭和高校球児物語-前高 完全試合のキセキ-▶︎9】
高校1年夏-1
2023.03.01
第1シードで臨む夏の選手権
春の県大会優勝ということは夏の選手権予選は第1シードになる。県外の有力校から練習試合の申し込みも多数来ていた。
この年、甲子園代表になるには群馬県大会を勝ち上り、山梨県代表との北関東大会を制する必要があった。以前は栃木県と群馬県で北関東大会、埼玉県と山梨県で西関東大会だったのだが、恐らく栃木県、埼玉県の学校数増加に伴ってそれぞれが単独出場県となり、残った群馬と山梨を合わせた格好だったのだろう。
山梨県の強豪高、巨摩高校と峡南高校から変則ダブルヘッダーの申し込みがあり、山梨へ遠征したのは6月の前半であった。
山梨遠征、笑える“事件”が多発
遠征は緊張感の高いものだが、そこはまだ半分子供の集団でもある。笑える“事件”が絶えなかった。この時も宿に到着後、夕食までのつかの間の自由時間に1年の相澤雄司と宮崎和裕がゲームコーナーに向かっていた。そこで宮崎が「うおっ、ちょい。ちょい。ちょい。50円、50円。50円、50円」。
どうやらそのゲームは5円玉でやるもののようだったが、宮崎は間違えて50円玉を投入しかけ、途中で気づいて指先で必死に落下を防いでいるらしかった。笑いネタのハードルの低い相澤はそれを見て大笑いしていた。
「うおっ、うおっ、ダメだ!ダメだ~」
必死の防戦にもかかわらず指先は力尽き、50円玉は機械に吸い込まれていった。
「あーあ…」
呆然とする宮崎。その2秒後、「チャリーン!」。何のことはない。おつり返却口から50円玉が転がり出てきた。5円玉以外を機械が受け付けなかったのだ。きまり悪そうに頭を掻く宮崎。腹がよじれるほど床を笑い転げる相澤。みなは相澤を見て笑っていた。
この遠征中、やはりエース石山佳治の容態は一向に回復せず、むしろ朝晩の冷え込みで腰痛を悪化させたのではないかと思うほどであった。両校との戦績も悪く重苦しさが増した。
体追い込む6月、OBの洗礼
新入生にとっては初めての夏に向けた練習が始まった。例年6月は体を追い込む時期とのこと。中間テスト期間の束の間の軽めの練習期間が明けるとグランドにはOB諸氏がたくさん姿を現した。まず、個人ノック週間であった。
バッティング練習終了後、内野の上級生は100本、新入生は50本。外野は同じく30本、15本。川北は千本ノックという言葉は聞いたことがあったが個人ノックは受けたことがなかった。OB諸氏が来られるのもノッカーがたくさん必要だからだと合点がいった。
先輩たちの半分の50本とはいえきつかった。前後左右に振りに振られ、ふくらはぎ、太ももはプルプルしたし、中腰の守備姿勢を取り続けるには下半身と腹筋、背筋の鍛錬が間違いなく不足していたのだ。いわゆるあごの上がった棒立ちに追い込まれて幽霊のようにトトと球を追うのがやっとであった。
なお念のため、ノックの本数はちゃんと処理できた本数のことであり、受けた本数でないことは言うまでもない。
どう考えても取れないところのノック打球でも精一杯追わないと次の打球はさらに離れたところに打たれ、全く本数が進まなくなることもあった。
この時期、よく来校されたOB諸氏は渡辺英夫さん、原田豊さん、生井駒雄さんといった田中監督世代前後の甲子園出場組、以前に監督も務められ年代的にはだいぶ若い小平勲さん、小平さんの少し上で学習院大学でプレーされた森村正明さん、江野沢浩市さんら北関東大会に進み、あと一歩で甲子園出場だった方々であった。
さらにOB会を含めて熱心な部活動をしていた野球部には顧問の先生が複数人おられた。前述の厳しい風紀指導者、化学の矢嶋道夫先生をはじめ国語の戸部正行先生、英語の内山武先生、日本史の冨田祥男先生がおられた。
ノックの名手、小平さんと内山先生
個人ノックのきつさはノッカーによるところが大であり、この中ではOBの小平さんのノックが段違いでキツいものであった。自身が選手時にはショートを守っていたこともあり、主にはショートの選手にノックを浴びせていた。
精度も高く、捕球ギリギリ数㌢先へのゴロや足腰がイってしまってからの高々とした内野フライ、外野においてはファールラインぎりぎりだったり、球場練習ではフェンスに当たる打球の練習。ノックしている間の小平さんの目には、思ったところに寸分たがわず打てる陶酔感がありありであった。
ノックを打ちながらの叱咤激励も厳しかった。
「ほらほらーっ、そんなだから、〇〇高校戦の6回にファンブルするんだよ!」
「腕を振って。腕を振って前進!」
「捕るだけじゃだめ~。その姿勢じゃあ投げられないよ。投げられる姿勢で捕るんだよ、投げられる姿勢で捕るん!」
「送球まで仕上がらないと本数カウントしないよー」
「そうそう、やっと体が覚えてきたよー。ノックはここからだよ、ここから!」
一人一人へのコメントが的確で、心身ともにヘロヘロにさせられた。
小平さんは夕方、勤務先から自家用車、シルバーグレイのコルトで来られていた。正門横のポプラの根本周辺にコルトが止まると、「来た!」。グラウンドのあちこちで部員の目線が交錯した。車が止まるとユニフォームに着替えてグランド入りされるのだが、やたら着替えるのが早く、あっという間に姿を現す…と思ったのは気のせいだろうか。
ライト側のファールグラウンドに姿を現すと、部員はみな帽子をとって口々に「ちわーす!」「ちゃーす!」と大声で挨拶を送った。今日もきついノックかと思いながら。
心なしかいつも、覚悟を決めたショートの安藤敏彦の挨拶が一番最初だったように思う。
まだ小平さんが来られていないのに、ライト側に背を向けていた部員をターゲットにダミーの挨拶で動揺を誘うドッキリは部員間でよく使われた。効果抜群であった。
ノッカーという範疇では英語教師であり、川北、田口淳彦の1年5組の担任でもあった顧問の内山先生も抜群であった。針金のような細身の体で切れの良い打球を飛ばしており、試合前の球場ノックはいつも内山先生が打つことになっていた。
野球経験のある方であればよくご存知と思うが、ノックで最も難易度が高いのはキャッチャーフライである。高々と打ち上げることは至難の業なのだが、内山先生の上げるキャッチャーフライの高さは、どの強豪校のノックと比べても遜色なかった。
普段は突っかかるくらいの強気な饒舌家であったが、ノック時には比較的寡黙だった。どちらかというと左右前後とノッカーの狙いの分かりやすい打球をシャープに放ち、打球が喋ってくるように感じられた。
後年改めて思うことだが、小平さんといい内山先生といい、当時の部員たちは全国レベルのノックを、少人数だったがゆえにたっぷりと受けていたといってよいだろう。
かわきた・しげき
1960(昭和35)年、神奈川県生まれ。3歳の時に父親の転勤により群馬県前橋市へ転居する。群馬大附属中-前橋高―慶応大。1978(昭和53)年、前橋高野球部主将として第50回選抜高校野球大会に出場、完全試合を達成する。リクルートに入社、就業部門ごとMBOで独立、ザイマックスとなる。同社取締役。長男は人気お笑いコンビ「真空ジェシカ」の川北茂澄さん。
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