interview

聞きたい

【昭和高校球児物語-前高 完全試合のキセキ-▶︎10】
高校1年夏-2

2023.03.02

【昭和高校球児物語-前高 完全試合のキセキ-▶︎10】 
高校1年夏-2

傷跡消えることのない心の棘

6月の追い込み練習時に前後して、11人目の新入部員の入部があった。前橋七中の関口佳克であった。小学校時代から市内では俊足で鳴らした彼ではあったが、入部のタイミングと紹介のされ方が悪かった。

みなが練習の疲労が溜まり戦績が下降してイライラしていたのと、OBから「君たちより凄い俊足選手」といった触れ込みで、いきなり優先的に打撃練習をさせるなどもあり、迎え入れる側に壁が造られてしまっていた。

本人も当初、周囲にどう接したら…があったのだろう。笑顔もなく何も話さずであった。後に恐ろしくお人好しな良い奴であることは分かるのだが、入り口でのボタンの掛け違いを埋められないまま関口は数日で退部していった。

走ることは早かったが肩を痛めていたのか送球が弱々しく、それが理由で入部を躊躇っていたのかもしれない。その後、彼はラグビー部に入部し卒業までマエタカラガーとして活躍した。

言い訳ではあるが、みなが体力的にも追い込まれて自分自身の事だけで精一杯だったのである。川北にとっても関口に対してとった態度は心の棘として残っていた。高3時に同じクラスになり、打ち解け、詫びることで棘は抜けたが、その傷跡は消えることのないものだった。

▲野球部を退部した関口と宮崎はラグビー部で活躍する

期待のショートも部を去る

過酷な練習に耐えかねたのか、1年の宮崎和裕も退部した。

これはみなにとって精神的にも戦力的にも大打撃であった。入部以来、彼の守備力は誰もが認めていた。川北たちの代のショートは安泰だと誰もが思い、期待も高めていた。

それだけに宮崎に対するノックや練習は質量ともに半端なかった。どちらかと言えば非力だった打撃面も左打ち改造計画が試みられていた。

しかし、期待感と過酷さが高まるにつれて彼はスランプになっていた。ノックのゴロバウンドを合わせそこなうようになり、思うようにならない左打ちを右に戻すと、バットがボールにまったく当たらなくなってしまった。

多くを語らずに宮崎は「みんなごめんな。俺辞める」と野球部を去って行った。彼も関口同様にラグビー部に籍を置き、卒業までマエタカラガーとして活躍した。校庭を共用していたのでよく見かけていたし、高3時には関口同様に同じクラスになった。ラグビーを本当に楽しそうにプレーしていた。

才能と運とタイミング。そして環境…考えさせられる出来事であった。

ケース練習で頭もヘロヘロに

6月半ば以降は梅雨の季節でもある。雨でグランドが使えないと校舎内、体育館でのトレーニングがみっちり行われた。

まずは校舎内の階段の上り下りを10往復。隊列も掛け声もなしで黙々と上り、下る。上りはほぼ一段抜かし、下りは二段抜かしで全員での競争に近いのだが、ほぼみながひと塊になる。それほど持久力の差はないということだ。

その後はきつい柔軟体操、腹筋背筋側筋、腕立て伏せ、片足屈伸。そして素振り。この頃には素振りで豆ができたり皮が剥けたりはなかなかしなくなってきていたが、雨天時の素振り量は半端なく、引手親指の根元関節上の最も皮の剥けやすい箇所が改めて剥けてしまったりもした。

湿度の高い時期でもあり練習用ユニフォームは汗でグショグショ、メガネは結露で曇りっぱなしであった。

▲素振りの量が増えて、皮が剥ける

室内トレーニングにはそれなりにきつさもあったが、屋外の通常練習のような心理的なプレッシャーは少なく、みなの顔には明るさがあった。何より長時間練習にはならない気楽さがあったからだろう。

ケースバッティング、ケースノックと集中力と緊張感を持続させつつ常に次のプレーを考えなければならない練習が増えていった。ケース練習は目まぐるしく設定が変わり、瞬時にその状態に応じた対応が求められた。

当時の規律感としてエラーが起こることはやむなしとしても、その後の処理やアウトカウントの間違い、サインの見落としといったいわゆるボーンヘッドは許されるものではなかった。

監督やOB、顧問の先生からの叱責もさることながら、そこは部員間でも「何やってんだよ」「ちゃんとやれよ。ちゃんと」と当事者のプライドを粉々に粉砕する緊張感があった。ケース練習は心理的にも、頭の中もヘロヘロになるものだったのである。

初戦の相手決まるも無反応

夏の大会の組み合わせ抽選会は6月の終わり頃だった。我らがマエタカはもちろん第1シード。初戦の相手は大間々高校(オオママ)と決まった。

正直、チーム内は無反応に近かった。なんせ自分たちは春の大会の優勝校である。1、2回戦での相手にそれほどの注意は払わなかった。どちらかと言えば石山が投げられるようになるか、だとすればいつ頃からかに関心は寄せられていたのである。

7月に入り梅雨明けが近づくと、夕立が雷雨と共にやってくるようにもなる。

特に西北西、榛名山と妙義山の間あたりから湧き起こる黒雲はてきめんの雷雨となった。

群馬県は昔、上毛(かみつけ)の国と呼ばれており、上毛(じょうもう)かるたという県内の名産、史跡、偉人を読み込んだ地元カルタがある。県内すべての小学校の授業で使われ、全員参加のカルタ大会が大規模に行われてもいた。

▲上毛かるたの「雷と空風、義理人情」

群馬県で育った人間にとっては反射的に体に染みついたものでもあるのだが、そのカルタの「ら」が「雷(らい)と空風(からっかぜ)、義理人情」であり、絵札には雷神の絵が描かれていた。

かわきた・しげき

1960(昭和35)年、神奈川県生まれ。3歳の時に父親の転勤により群馬県前橋市へ転居する。群馬大附属中-前橋高―慶応大。1978(昭和53)年、前橋高野球部主将として第50回選抜高校野球大会に出場、完全試合を達成する。リクルートに入社、就業部門ごとMBOで独立、ザイマックスとなる。同社取締役。長男は人気お笑いコンビ「真空ジェシカ」の川北茂澄さん。