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聞きたい

【昭和高校球児物語-前高 完全試合のキセキ-▶︎11】
高校1年夏-3

2023.03.03

【昭和高校球児物語-前高 完全試合のキセキ-▶︎11】 
高校1年夏-3

「さあ、来いよ」 雷を呼ぶ

夏、確かに雷は激しかった。地形的に平野と山岳の結節点にあるからか、山のすそ野に沿ってジリジリ熱せられた空気が急激に上昇し、巨大な積乱雲に発達成長する。大きく大きく発達した雷雲が崩れ落ちながら雷嵐となってやってくるのである。

風雲急を告げる強風が吹き始め、上空にきた雷雲の直下は真っ暗となり、稲光の輝きで周囲の人も物も真っ白なストロボフラッシュに。雷鳴は空が崩れたかと思うほどに響き渡り、落雷時には地面が激しく叫び、地響きとともに大きく震えたものだった。もちろん叩きつけるような雨も降り、あっという間にグラウンド上に水流が流れる。

▲雷は夏の上州名物。すさまじい音と光を放つ

練習中、西北西方向に黒雲が見え始めるとみなの目が輝き始める。

「さあ行こうぜー!」

「さあ、来いよ、来いよ、来いよー!」

まるで雲を呼んでいるかのように掛け声のトーンも上がり、風が吹き始めると、いつ道具片付けの指示が出るかとそわそわし始める。

ただしこのタイミングが微妙である。練習前半で雷雨となると室内筋トレに切り替わってしまうのだ。練習後半だとその日はやむを得ず練習終了となる。もちろん、練習終了をみなが望んでいたのだった。

余談をひとつ。夏の群馬県大会の特徴と言えるかもしれないが、当時はベンチに木のバットを数本必ず持ち込まなければならなかった。

試合中の雷の来襲を見越し、少しでも試合を進めるために、金属バットではなく木のバットを使うよう審判から指示が出ることもある…といったわけであった。

▲夏の大会はベンチに木製バットを用意した

それほど雷は通常のモノとして日常に入り込んでいたのである。その時のために木のバットで打つ練習もしたが、すぐに数本が折れていたように記憶している。気のせいだったかもしれないが。

部員はやたら天気予報や天気図に詳しくなっていった。風向き、雲の発生状況によるこの先の天気推移に全員が正確な読みができるようになっていた。

主砲・外池にアクシデント

夏の大会直前の練習試合で嫌な出来事が起こった。

大会直前は県内での試合は避けていたので、埼玉県まで練習試合に行ったのだが、そこで4番バッターの外池悟が肉離れを起こしてしまったのだ。

ファーストを守っていた外池が打者ランナーと交錯して、「あ痛たた!痛い!痛い!」と地面に両手をついて動かなくなった。

川北の位置からはよく見えなかったが、田中不二夫監督、内山武先生は激高していた。打者ランナーがわざとインフィールド側に入り込みながら一塁を駆け抜けたが故の交錯に見えたようであった。真偽のほどは定かではない。

後年、「外池がケガをさせられて…」とのコメントを繰り返し聞いていたし、「〇〇高校とは二度と練習試合はしない」だったので、ケガまでは故意ではなかったのは当たり前だが、インフィールド側に入り込んでの走塁は明らかに故意だったのだろう。

当時、セーフティーバントをして相手が守りにくい走塁をすることはそこそこ目にしていた。一塁側のみスリーフィートラインが引かれてはいたが、その意味を厳格に捉える風潮ではまだなかったのである。ただしマエタカにおいては以降、そこは厳格なルールとなったのは言うまでもない。

当時、外池の打撃は絶好調だったのだ。右中間へのライナー性の打球の伸びが抜群で、右打者ではなかなか当たらない右中間の校舎二階の窓防御の網に、ダイレクトで叩きつけた打球のスピードは忘れられないものだった。

エース石山も投げられず

こうして、夏の初戦を迎えた。群馬県大会のメイン球場、前橋市の県営敷島球場であった。

エース石山佳治は投げられずファースト、先発投手は小出昌彦、外池はベンチだった。それでも、大間々高校(オオママ)との戦力差を考えれば十二分に勝利できるはずではあった。

▲悲運のエース石山。最後の夏はマウンドに立てなかった

が、どういうわけか試合展開は重かった。初戦という固さ。中心選手の故障者を抱えたうえでの焦り。慣れない第1シード意識など、これまでいつも挑戦者であったものが相手の気持ちや攻撃の受けに回ってしまったのだろう。

最後まで、らしくなかった。打撃は相手投手に打たされ、守備では相手の当たりそこないの安打が続き、やればやるほど空回りとはこうなのだろうかという展開になった。

途中から宮内武を登板させ、テーピングした走れない外池をファースト、サードを石山としたが、あっという間の9回、そして敗戦となった。3対4の1点差。ただ、ただ呆然とするしかなかった。あの春の優勝は…、夏を目指した練習は…、一体何だったのかと。

強い3年生引退し新チーム始動

この3年生の代のチームは確かな実力が備わっていたと今でも思う。当時OBでもあり、3年生キャッチャーの原田実の親父さんが「3年生は1回戦負けからスタートして、優勝も経験できた。ゼロから始めて頂点までやれたことは貴重な経験だし、その間の努力と過程は、本当に褒められるべきものだ」 と語っていたのを覚えている。

▲22年ぶりに県大会を制した3年生ナインは実力者ぞろい

後に3年生から聞くと、1年時の冬に日大の野球部から数人教えに来てもらいキャンプのような特別練習を行った。すごくきつかったが、そこでいろいろなことが変わったとのことだった。川北たち1年生はその変化を体験してはいないが、間違いなく言えるのはこの代のチームで当たり前とされているプレーのレベルは本当に高かったということである。

この最後の試合に3年生でセカンドの控え選手だった篠田努を9回は打席に送るのかと思ったが、田中監督は微動だにしなかった。1点差試合。ある意味、最後の最後まで最善を尽くし切って勝利を目指すことを貫いたのだろう。

この時の戦力が本調子であれば夏の甲子園もありえた。田中監督としても数々の不運に何くそっと思っていたであろうし、誰よりもこのチームを勝たせるつもりでいたのだろう。

思いもかけない初戦敗退。まだ夏休み前であった。

3年生7人が引退し、2年生5人、1年生9人の総勢14人で新チームはスタートすることとなったのである。

かわきた・しげき

1960(昭和35)年、神奈川県生まれ。3歳の時に父親の転勤により群馬県前橋市へ転居する。群馬大附属中-前橋高―慶応大。1978(昭和53)年、前橋高野球部主将として第50回選抜高校野球大会に出場、完全試合を達成する。リクルートに入社、就業部門ごとMBOで独立、ザイマックスとなる。同社取締役。長男は人気お笑いコンビ「真空ジェシカ」の川北茂澄さん。