interview
聞きたい
【昭和高校球児物語-前高 完全試合のキセキ-▶︎52】
高校3年春-1
2023.04.29
苦しみながらも県大会決勝へ
甲子園から戻り、あっという間に始業式。高校3年生となった。最上級生、あと1年で高校生活が終わる…などの感慨はなかった。
やはり真っ最中というものは乗っている電車の中のようなもので、走っている電車を眺める視点はなかなか持てないものなのだろう。
3年1組、文系クラス。担任はまた中曽根基先生であった。クラスに野球部員はもう1人、田口淳彦がいた。彼とは結局、中高6年間で5年間、同じクラスということになった。高1時に野球部を辞めた関口佳克、宮崎和裕もまたクラスメイトとなった。
クラスには後々、動物写真家として有名になる小原玲、群大附属中時代から学年トップの成績を譲らず、東京大学から警察官僚となってのち、あの村上ファンドの頭脳とされた天才、瀧澤建也ら才能あふれる生徒が多くいた。大学教授も複数人輩出している。
最上級生となり学業もスパートをかけるべき時期と言えたが、川北はこの頃、惰性&中弛み感で過ごしていた。瀧澤に勧められた辻邦生の小説「夏の砦」にのみ没頭していた。不思議な時期だった。
新入部員に「聖子ちゃんの旦那」
一方で野球部には多くの新入部員を迎えることとなった。それはそれで新しい活力を得る時期ではあったのだ。
小柄ながら切れの良い球を投げる左腕の福嶋広幸、ショートとしての守備力、肩が即戦力の平松敏郎、後に立教大学野球部へと進んで主将を努め、六大学野球審判員となる桑原和彦、まだ少年といえたが、足のサイズが異様に大きく大型左腕への成長を期待させた河奈裕正…。
この時、この河奈が時を経てあの松田聖子さんと結婚するなど考えも及ばなかった。もっとも聖子さんもデビューすらしていなかったのだが。
甲子園出場は新入部員集めにも効果があり、多士済々の部員を多数迎えたのだった。彼らの目が希望に満ちて活き活きしていたことが印象深い。
闘志に火が点かない序盤戦
4月半ばには春の県大会に突入することとなった。甲子園での出来事を心でも体でも消化し切れておらず、大会前のモチベーションはそう高くなかった。
1回戦はシードで初登場となる2回戦。4月19日、藤岡高校との対戦だった。典型的な受けて立つ展開で5対3。薄氷の勝利だった。
しかし、試合となると相手がおり、彼らが甲子園帰りのマエタカに目一杯の闘志をぶつけてくる。この相手がぶつけてくる闘志がマエタカ野球部員のプライドに徐々に火を点けていったように思う。
「おらあ、どうした甲子園!」「そんなんでよく勝てたなあ!」「またエラーで14対〇かあ!」と嫉妬も含んだ野次も含まれていた。
「甲子園、完全試合はフロックではない」「あんなみっともない試合はしたくない」「良かろうが悪かろうが、いつも全力を尽くしている。そのことを他人にとやかく言われたくない」「目の前のお前たちには負けたくない」。マエタカ部員は奥歯をグッと噛んで心の中で叫び、闘志を徐々に掻き立てていた。
特に4月23日の3回戦、伊勢崎工業高校戦は相手に先行され、福井商業高校戦を思い出させるエラーもあって敗戦に傾きかける展開となったが、終盤に逆転。これも5対3で勝ち切った。
終盤の攻撃時には全員の気持ちが打者と一体化し、強気な好球必打につながった。この試合がマエタカ野球をみなに呼び覚ましてくれることになった。
川北も中盤のピンチ時に三遊間のヒット性の当たりを飛び込んで好捕し、3塁から本塁へ突入する走者を刺した。記憶に残るプレーであり、闘志のみで集中していたがゆえにできたプレーといえる。
そうなのだ。「闘志」「集中」「意地」「全員一丸」これが自分たちのマエタカ野球だった。秋季大会でコールド負けも頭をかすめた太田工業高校戦もそうだったが、不思議と3回戦がターニングポイントになっていた。
富岡高に快勝、桐生高と再び
4月30日、春季大会準々決勝。前橋・敷島球場。相手は秋にも準々決勝で戦った館林高校だった。
3回戦から点火して戦う集団となったマエタカは全員が意気軒高であった。前半から得点を重ね、5対〇。コールドとは行かなかったが点差以上に勝敗差はあったと感じられた。負ける要素も気分もまったくなかった。
5月3日、準決勝。春季県大会のメイン会場、高崎の城南球場。相手は富岡高校(トミオカ)だった。ゴールデンウィークとなり汗ばむほどの晴天。むしろ太陽の照りつけがギラギラと感じられた。スタンドも観客が多く、夏向きの白い色の服装が多く見受けられた。
「おー、夏だよ。これは夏の大会だよ!」
感性鋭い堺晃彦がダイレクトに大声で言っていた。夏の大会にあまり良い記憶のないマエタカにとって、「夏試合」は緊張度合いが上がるものであった。
ただ相手がトミオカであることは救いだった。これまで比較的相性が良い印象がすり込まれていた。この代では練習試合で〇勝2敗だったのだが、2つ上の大須賀誠一投手や1つ上の広木政人投手のような剛腕投手から勝利をつかみ取らせてもらった相手…との印象が強かったからかもしれない。
試合は拮抗したが6回表に一挙に取った4点をかっちり守り切った。4対〇。完勝であった。これで再びキリタカとの決勝戦となった。
この年、東京農大第二高校、高崎商業高校など例年の実力校も戦力は充実していた。この2校に対しては苦手意識もあった。入学してから勝っていないのである。
不思議なことにこの代では、公式戦でこの実力高2校とは常に反対ブロックだった。そして反対ブロックからはキリタカが勝ち上がってくるのだ。
このへんのことをマエタカ部員は何とも不可思議な事象と捉えていた。「ツキ」「運」以外には考えられなかった。
2校には得体のしれない恐怖心を抱いていたし、対戦して勝てる気がまったくないのが本音だったのだ。
結局この2校とは練習試合も組まれなかった。相手の思いは分からないが、こちらは対戦したくなかった。苦手意識を払拭するより、上書きしてしまいそうな予感もあったのだ。
かわきた・しげき
1960(昭和35)年、神奈川県生まれ。3歳の時に父親の転勤により群馬県前橋市へ転居する。群馬大附属中-前橋高―慶応大。1978(昭和53)年、前橋高野球部主将として第50回選抜高校野球大会に出場、完全試合を達成する。リクルートに入社、就業部門ごとMBOで独立、ザイマックスとなる。同社取締役。長男は人気お笑いコンビ「真空ジェシカ」の川北茂澄さん。