interview
聞きたい
【昭和高校球児物語-前高 完全試合のキセキ-▶︎44】
高校2年冬-5
2023.04.17
センバツ出場の通知に感激
いよいよ2月1日。高野連の選抜選定会議の日が来た。どうやら夕方に電話で学校に連絡が来るらしい。
その後の行事を想定してネーム入りユニフォームで練習をしていたがまったく身が入らない。もし連絡が来なかったら「その気になって待っている」ことの格好悪さもあるなあ…とぼんやり考えたりしていた。田中不二夫監督も本業の銀行勤務から早めに来ていた。
グラウンドにいると、「決まったよ!」との声。改めてうれしさが込み上げた。
監督の胴上げ。監督が不安を抱える腰のあたりを川北とガタイのよい1年生で支えた。
部員は校長室へと促されて歩き始めると、校舎の方から中学からの先輩、中林毅が走ってきた。大学受験の山場を迎えようという時期に選抜されるかどうかを学校で待ってくれていたのだった。うれしくて抱きついた。
「有難うございます。有難うございます。中林さんのおかげです」
このとき、じんわり涙が出た。中林に誘われての野球部入り。すべてがそこからだったとつくづく思ったのだった。
校長室で整列。改めて第50回選抜高等学校野球選手権大会への選考を告げられた。主将として挨拶を求められた。ほぼ事前準備は無く、素直に心境を話したと記憶する。
「甲子園に、憧れていた甲子園に行ける。甲子園に行ける。監督さん、先生方、OBのみなさま、ありが…」
後半は込み上げるものがあって言葉にならなかった。小学2年生で野球を知り、4年生時に甲子園を知った。春も夏もテレビの前に釘付けとなってきた憧れの場に出られるとのこと。夢の中の世界であった。
慶応大直伝「ダッシュ、マエバシ」
2月から3月はまさに“選抜出場狂想曲”が奏でられた期間だった。県庁、市役所など各方面に挨拶に行った。
校内でも壮行会があった。一人ずつレギュラーを体育館の壇上で紹介した。笑いの要素も忘れずにそこそこ盛り上げることができたが、何といっても圧巻は小平勲コーチのスピーチだった。
「在校生のみなさんの爆発的な関東大会での応援のおかげで…。みなさんにどうやったらお返しできるか。どうやったらみなさんが楽しく応援できるか。そのための万全の準備、より一層の鍛錬を選手に課すことで、みなさんが甲子園で楽しく応援できるようにすることをお約束いたします」
迫力満点、凄みがあり、野球部員が「青ざめているザワザワ感」が在校生に伝わり、逆に拍手喝采であった。川北の背中にも冷や汗が伝っていた。
この壮行会に向けて慶應義塾大学応援指導部に応援指導に来ていただいた。やはりユニフォームカラーと同様にマエタカは慶應、タカタカは早稲田なのかもしれなかった。
応援指導部員は全校生徒を前にした応援練習挨拶ではいきなりマイクを横に外した。
「わたくしたちにはこのようなものは必要ございません」
よく通る力強い声で宣言され、圧倒的な声量と応援リーダーのメリハリのある演舞を見せてくれた。マエタカ応援団も事前に猛訓練をさせられたのだろう。これまでとはレベルの異なる一糸乱れぬ振り付けと微動だにしない決めポーズ。応援というものの気持ちを伝える力の熱量を実感させられた。
在校生達も茶化すことなく応援練習に引き込まれていた。「ダッシュ、ケイオー!」ならぬ「ダッシュ、マエバシー!」。みなで気持ちと声と動きを合わせると、経験したことのない波動を共有できたのだった。
この時までマエタカの応援には「いち、さん、なな拍子」というのがあった。文字の通り一回、三回、七回と手拍子をして行くのだが、正直、少し間延びのするものだった。
この応援指導以降「いち、さん、なな拍子」はなくなった。恐らく応援指導部員に却下されたのだろうと類推する。
ユニホーム新調、道具もそろう
甲子園行きを前にして道具や備品も充実してきた。田中監督時代のOBで、俳優として有名な天田俊明さんから部員全員に白いスポーツバッグを頂いた。有名テレビ番組「七人の刑事」の初代メンバーがマエタカ野球部OBとはびっくりであった。
また、いろんなスポーツメーカーから話があったのだろうが、部員全員に一足ずつオニヅカ社のタイガー・ゲーリック・スパイクをいただいた。提供を受けたのか、まとめて学校で買ったのかは分からない。
まだまだある。秋の関東大会向けに作った公式戦用ユニフォームをさらにリニューアルした。
若干白めのアイボリーで、胸の学校名だけでなく左肩の校章も刺繍となった。帽子はクラウン部分が小さく、Mマークが刺繍となった試合用新帽子に。アンダーシャツはローリングス社のあまりネックの高くないハイネックに。
ヘルメットはこれまでマークがなかったのだが、Mマーク入りの新品で後ろにナンバー入りとなった。
遠征用のグラウンドコートも新調された。黒い生地で恐らくダウンが使われていた。左胸には銀色の刺繍で縦に「前橋」とあった。まさにバブルと言ってよかっただろう。
金属バットも大量に新品が納品された。川北は「Bom」とマークのあるボンスラッガーが気に入った。銀色で若干打撃部分が太目。ミートした際に「ギャラキンッ!」と打球音が大きかった。
しかも芯でなくても同じような音なのだ。これは相手守備を惑わすことができる。打球音からは強烈な打球だと思うだろう。芯を外したボテボテ打球で勝負する川北には最高の武器であった。
甲子園前に打撃のピーク
甲子園に出発する前の最後の球場練習。伊勢崎球場だったか県営敷島だったか記憶が定かではない。ただ、このときが川北の生涯で左打席打撃が最も調子よかった。
ヘッドが垂れないように左手の握りを深くし、右半身のみを地面にめり込ませるくらいの意識で下に折り下げる早めのバックスイング。左肩上あたりで特別に握りしめないグリップ。かつて味わったことのないくらい、ボールの芯を打ち抜いて、さらにボールを打球方向に押し込んでいく感覚があった。
右中間のフェンスに当たったライナー、レフト線に置いてあった防球ネットを倒すほどのライナー。いまもあの当たりの感触は残っている。
通常バッティング練習は打った後に守備について打球を捕球する守備練習をするのだが、このときはずっとスイングをしていた。球場ネット裏部屋の窓ガラスに姿を映して、このスイングを体に覚えこませようと必死だったのだ。
しかし、にもかかわらず打撃はこの時がピークだった。チャンスの神様には前髪しかないとはよく言ったものだ。いまにして思えば本質的には構えやフォームではなく、バックスイング時の脱力感と重心の置き方。来る球の芯を素直に打ち抜こうと集中できていたことが要因だったのだろう。必死の真っ只中にいることで見えていないことは多い。
かわきた・しげき
1960(昭和35)年、神奈川県生まれ。3歳の時に父親の転勤により群馬県前橋市へ転居する。群馬大附属中-前橋高―慶応大。1978(昭和53)年、前橋高野球部主将として第50回選抜高校野球大会に出場、完全試合を達成する。リクルートに入社、就業部門ごとMBOで独立、ザイマックスとなる。同社取締役。長男は人気お笑いコンビ「真空ジェシカ」の川北茂澄さん。
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