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聞きたい

【昭和高校球児物語-前高 完全試合のキセキ-▶︎43】
高校2年冬-4

2023.04.16

【昭和高校球児物語-前高 完全試合のキセキ-▶︎43】
高校2年冬-4

田中監督直伝の睡眠法

合宿は淡々と進んでいった。エアコンの暖房をガンガンにかけて喉がガラガラになったが、風邪っぴきまではいかずに済んだ。

合宿中に田中不二夫監督から「穏やかに眠れる方法」を教えてもらった。

仰向けに横になり脱力。両足を少し開き、両手をお腹に乗せ、目を閉じる。右足の裏に口があるイメージでそこから肺へゆっくりと息を吸い込む。もうこれ以上吸い込めなくなったら一旦止めて、こんどは肺から左足裏へゆっくりと息を吐いていく。

簡単に言えば深呼吸自体に意識を集中するやり方だ。教えていただいた時には「ふーん」くらいだったが、その後、ことあるごとにこれを実践してきた。

翌日に何かイベントがあると高ぶって眠れない事は多々ある。寝よう寝ようと思うと逆に眠ることができない。極端に言うと「眠れなくても朝までこれで深呼吸をしていよう」くらいの気持ちでやると必ず眠ることができた。思い返すとたくさんのことを得た合宿だった。

▲雪の中、1人だけ練習を続けた竹井(後列右から2人目)

雪の中、1人で腹筋する1年生

合宿3日目だったと思う。午後練習の途中から雪が降りだした。意外に思われるかもしれないが、群馬県の山間部は豪雪地帯であるが、前橋市あたりはしっかりした雪は滅多に降らない。東京など関東南部に降る際に同時に降る格好であったのだ。

この日の雪はなかなかのボタン雪で、降り始めから短時間で遠くが見通せないくらいの降りしきる情景となった。例によって降り始めたあたりから、こんな会話が交わされた。

「お、結構降るんじゃねえか?」

「こりゃあ今日は早上がりじゃねえかな」

みんなの目が落ち着かなくなり、声出しの声が生き生きしてくる。

「さあ、行こうぜっ!行こうぜっ!」

最初は払い落していた雪がなかなか落とせなくなり、「ベンチに入ってっ!」と球場ベンチに避難となった。その間も刻一刻と雪足は密度を増してきていた。

置かれていた炭火にあたりながら、「これは、今日はやみそうにないなあ」と戸部正行先生がうれしい話をしたときだった。

「あれ、誰かいる?」

「どこどこ。」

「ほらライト線の外野ポールの前っ!」

「え、見えない。おー、誰だあれ。何か動いてるよ」

「竹井だ、竹井だっ!」

「ほんとだ!、竹井が腹筋やってるよっ!」

雪煙で真っ白に煙り、目を凝らさないとわからないが、1生の控え投手、竹井克之がライト線ファウルグラウンドの一番奥で、降りしきる雪の中、腹筋をしているのが分かった。

口数少なく真面目で愚直に取り組む竹井らしかった。みなが避難して練習が中断していることにも気づかずに一心不乱に腹筋トレーニング。すぐに救出隊を出動させた。

体全体が雪で覆われた竹井がはにかんだ照れ笑いで引き揚げてきた。微笑ましく記憶に残る光景であった。

▲敷島球場を使っての練習は気が締まる

OBの洗礼 きついアヒル

翌日4日目。合宿最終日。この日は田中監督が所用でいなかった。前日の雪も一定残ったが、部員たちが期待したほどグランドに影響はなかった。

この日はOBの小平勲さん指示での練習メニューとなった。愕然としたのは前日まで塁間往復で終わっていた「アヒル」だ。

「今日のアヒルはホームからポールまで往復ね♡」

「えっ?」

「昨日までは物足りなかっただろうから、今日は目一杯ね」

耳が信じられなかったのと同時に「やっぱ、これが小平さんだよな~」と下っ腹が痛くなった。

「アヒル」はしゃがんだ姿勢で両手でアキレス腱をつかみ、そのままの姿勢で足を擦るように動かして進むものだ。腰、太もも、膝、ふくらはぎに絶大な負荷がかかる。

片道、ポールに辿り着いた時に、思わず一度立ち上がって腰を伸ばした。もしかすると「よーし。いいよ~」の声が掛からないかと。

「はい、あと半分。頑張って♡」

万が一の期待など抱くべきではないと痛感した。小平勲さんの指示は常に完遂を求めていたことを忘れてはならなかった。後々には笑い話になる。「田中さんは塁間だけど、小平さんはポール往復だもんなあ」っと。

▲空っ風に向かって走る、走る

父と息子 難しい関係

年末年始には部員の父兄と監督、先生方の懇親会的な催しもあった。懇親会の後に佐久間秀人が話し掛けてきた。

「おう、おう、川北。お前、みなが言うこと聞いてくれないって親父に泣きついたんだって?」

「はあ?」

懇親会で川北の父親が佐久間の父親に「いやあ、息子に泣きつかれちゃって…」的に言ったらしいのだ。思い当たることはあった。この機会にというのも変だが川北の名誉のために捕捉する。

まず、もともとマエタカ野球部での川北の主将としてのポジションは世間一般に思われているそれとは異なっていた。技量的にも試合経験値的にもいわゆるゲームリーダーではなかった。

試合展開上での作戦の意志統一はベンチ指示であり、グラウンドでは外野は相澤雄司、内野は堺晃彦、全体は松本稔に実質ゲームリードが委ねられていたといってよい。

どちらかというと、これらの間の確認を取ったり念押ししたりが川北の役割であった。後は団体行動の指示連絡、練習内容の指示連絡など、いわゆる部のマネージャーの役割や代表してコメントする広報と渉外の役割を担っていたのだった。

前年度からのレギュラーが多く、自己主張の強いメンバーも複数いる中で、他の部員にあーだこーだ言われながらも「そうは言ったって、こうするよ!」など、みなをなだめながら運用するカラーだったのだ。

みながモノを言いやすく、「どうしてもとカワキタが言うならしょうがねーな、やってやるよ」となる格好だった。

それがこれまでの流れで自然成立してきたものだったが、そこはまだ高校生である。たまには「何でだよ」という事態も発生してはいた。

▲父兄たちも飲み会で親睦を深めたことだろう

ある日、川北の父親が「たまには」と言って初めて2人でのビール飲みを誘ってきた。もちろん、自宅でだ。

川北の父親は真面目なサラリーマンであり、自らが生まれてすぐに父親を亡くしていたことで、父親と息子の関係をどう築いたものかと手探っていた感があった。

川北は川北で小学生時から野球にはまっていたので、自分は野球を通じて外で教育され、世の中の人間関係、社会関係はある程度理解していると思っていた。

なので、父親を頼ることはあまりなかったのだった。この誘いの時も「たまには父親らしく振る舞いたいのだろう」と応じて結構な量のビールを飲んだ。

アルコールが入れば多少、話に尾ひれも付く。悩みと言うよりは自分の担っている役割の負担感を少し愚痴った記憶である。愚痴った中身よりも「初めて息子から愚痴を聞かされた、人生の先輩としての父親の満足そうな顔」の方が記憶に残っている。きっとすごくうれしかったのだろう。

もともとそれほど酒の強い人ではなかった。懇親会で少し酔っ払って口が滑ったといったところに違いない。ただし、それが回りまわってくると話は違ったものになる。

以降、川北は父親に相談したり、愚痴をこぼすことは一切なくなった。報告や願いごとはむしろ以前よりきちんとするようになったが。人間関係、とりわけ親子関係の機微は難しく奥が深い。

かわきた・しげき

1960(昭和35)年、神奈川県生まれ。3歳の時に父親の転勤により群馬県前橋市へ転居する。群馬大附属中-前橋高―慶応大。1978(昭和53)年、前橋高野球部主将として第50回選抜高校野球大会に出場、完全試合を達成する。リクルートに入社、就業部門ごとMBOで独立、ザイマックスとなる。同社取締役。長男は人気お笑いコンビ「真空ジェシカ」の川北茂澄さん。