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学びたい
【鈴木貫太郎の群馬学的考察▶4】
海軍で出世した「関東もの」
2024.11.27
「薩の海軍、長の陸軍」という言葉がある。明治国家の政府や軍部の要職は、徳川幕府を倒す中心勢力となった「薩長土肥」(薩摩藩・長州藩・土佐藩・肥前藩)出身の有力者が独占し、「藩閥」と呼ばれた。とくに海軍では西郷従道・山本権兵衛・大山巌らに代表される薩摩閥が、陸軍では山形有朋・児玉源太郎・乃木希典らに代表される長州閥が勢力を握っていた。
日清・日露戦争で功績上げる
海軍兵学校もそうした時代情勢を反映していた。海軍兵学校14期生の鈴木貫太郎は『自伝』で次のように語っている。
「その時の生徒は百二十人ばかりの中に関東のものは私唯一人である。前に申したとおり、その時代というものは、そんな事情であった。その翌年からは、群馬・茨城・埼玉などから五人入って来た。そして私の所に訪ねて来るようになり、日曜は私の下宿で一緒に暮らすようになって、だれいうことなく関東クラブという名を周囲からつけられた」。
海軍で関東ものは少数派であった。司馬遼太郎は『坂の上の雲』で鈴木貫太郎を次のように紹介している。
「…鈴木は、西日本出身者が多いこの当時の海軍士官としてはめずらしく歯切れのいい関東弁でいった。鈴木は譜代大名の久世家の家臣の子で、父の任地である泉州(大阪府)久世村で生まれたが、維新の瓦解で江戸にもどり、さらに群馬県前橋に移った」
海軍兵学校の少数派であった貫太郎は、日清・日露戦争に従軍し功績を上げ、大正3年(1914)に海軍次官、同12年に海軍大将、同13年に第一艦隊司令官兼連合艦隊司令長官、同14年に軍令部長と出世した。
鈴木は海軍の「関東もの」の出世頭であった。中島知久平が海軍を辞めて郷里群馬県で飛行機製造会社を起業することが出来たのも、鈴木と同じ千葉県出身の岸田東次郎海軍機関少佐が、海軍次官であった鈴木に「中島は稀に見る立派な人物だ。われわれと同じ関東人でもあるから、ぜひ彼の志を遂げられるよう取り計らって欲しい」と頼み込んで、次官室で鈴木と岸田・中島の話し合いが行われ、知久平の考えに鈴木が理解を示したからであった。
幼少期の父の戒め守る
鈴木の出世は一見すると順風なようであるが、実はそうではなかった。財部(たからべ)彪(たけし)と比べてみよう。財部はいまの宮崎県都城市出身。都城は江戸時代に薩摩藩の私領で都城島津氏が治めていた。財部の妻は薩摩閥を代表する山本権兵衛の長女・いねであった。
貫太郎と財部の生まれは同年で、兵学校卒業は貫太郎が1年早かった。けれども、年月の経過とともに昇進が逆転。海軍中将になったのは財部が大正2年、貫太郎が同6年。海軍大将になるのは財部が大正8年、貫太郎が同12年であった。
前号で紹介した群馬県人の丸橋彦三郎は貫太郎と財部と年齢は同じで、兵学校卒業は財部と同じ15期であった。丸橋はようやく大正7年に海軍少将なったが、それ以上昇進することはなかった。
薩摩閥外にあり昇進が遅れた貫太郎は「わしは人よりも進級のおくれた時、煩悶して寝られなかった」と後に述べている。閥外にあった貫太郎が、進級が遅れながらも出世したのは、幼少期の父の戒めを実践したからであった。
貫太郎一家は明治10年に千葉県関宿から前橋へ一家転住した。前橋ではよそ者であった。貫太郎は『自伝』の中で「…前橋には土着の士族があり、私たちが他藩のものなので、万事について他所(よそ)者扱いにし、軽蔑してからかったり、そればかりか、途中に待ち伏せていて脅迫がましくおどしたり、なぐる真似をして喧嘩を吹っかけるなどしばしばだったが、父の戒めを守って私は忍耐して、いっかなその挑戦に応じない、黙って“今に見ろ”というふうに大きくかまえているものだから、打ってかかることはしなかった」と、転校生=よそ者ゆえ、イジメに遭ったと語っている。
では父の戒めとは、どんなものであったのであろうか。貫太郎は『自伝』で「父が群馬県庁に勤めていた頃、出勤の際に、私も学校へ行く途中、父の後ろについて一緒に行く折がしばしばあった。ある街を歩いている時、歩きながらなんの気なしに、父は私にいった。“人間は怒るものではないよ、怒るのは自分の根性がたりないからだ、短気は損気ということがある、怒ってすることは成功しない、皆自分の損になるばかりだよ”。なんの気なしにいった父のこの言葉が、今日に至るまで強く私の胸に喰い込んで離れないのである。父の姿、その時の街の様子までがありありと私の頭に焼きついて一生のものとなって残っている」と述べている。
逆境の中で前橋での生活が始まった。海軍兵学校でも海軍でも、貫太郎にとってその境遇は同じであった。貫太郎は父の戒めを実践した。弟の孝雄も、長州閥外ながら陸軍で陸軍大将となった。兄と同じように父の戒めを実践したからに違いない。
桃井小1万人卒業生の出世頭
貫太郎の母校・桃井小学校は昭和11年(1936)3月の卒業式で卒業生1万人に達することになった。貫太郎は卒業生1万人の出世頭であった。
それゆえ、羽鳥耕作校長は記念の教訓碑をつくろうと、貫太郎に揮毫を求めた。父の戒めを実践し海軍大将、侍従長兼枢密顧問官になっていた貫太郎は「正直に 腹を立てずに 撓まず励め」という言葉を贈った。
その9年後、貫太郎が昭和天皇に懇願され内閣総理大臣として戦争を終結させたのも、父の戒めを実践し続けたからに他ならない。
貫太郎は求めに応じ、多くの言葉を揮毫しているが、この言葉は漢籍などから採られたものではなく、貫太郎そのものであった。救国の宰相・鈴木貫太郎の原点は前橋にあると言えよう。
海軍少将と陸軍中将輩出した小学校
司馬遼太郎は『坂の上の雲』で次のように語っている。
「「陸の長閥、海の薩閥」という。これはうごかしがたい事実であった。「薩の海軍」のばあいは薩閥の山本権兵衛自身が、日清戦争の前に薩摩出身の先輩たちのうち、無能者の首をことごとく切って組織をあらたにし、機能性をするどくし、清国に勝つことをえたが、しかし、「長の陸軍」のばあいは、そういう新生改革の時期がなく、大御所である山県有朋が、依然として藩閥人事をにぎり、長州出身者でさえあれば無能者でも栄達できるという世界であった」。
群馬県(上州)出身者は閥外にあった。近代教育制度が整えられると「一に海兵(海軍兵学校)、二に陸士(陸軍士官学校)、三・四がなくて、五に東大(東京帝国大学)」がエリートコースになった。
山田郡境野村(桐生市境野町)から、新井亀太郎が陸軍中将(陸軍士官学校卒)に、丸橋彦三郎が海軍少将(海軍兵学校卒)になった。丸橋については前号で紹介したので、新井亀太郎について簡単に触れることにしたい。亀太郎は明治8年に生れた。16歳で上京し錦城商業学校に入学したが、同27年士官候補生として歩兵十五聯隊補充隊入隊し、翌年陸軍士官学校に入学した。同35年陸軍大学校に入り、在学中に日露戦争に従軍。大正7年大佐、同11年少将、同15年中将となった。昭和6年に退役し、翌7年に県立伊勢崎高等女学校で講演中に倒れ病没した。
青雲の志を抱いて上京した新井が20歳で突如、歩兵第十五聯隊補充隊に士官候補生として入隊したのは、次に紹介するように丸橋との運命的な出会いがあった。
「同じ境野村から出て日露戦争当時哨戒船信濃丸の船長として彼の有名な「敵艦見ゆ!」の信号をあげた人で一昨々年物故された海軍少将丸橋彦三郎氏がまだ候補生時代、東京の永代橋の下を艦載ボートの舵手として上流に向はうとする時、丁度その時橋の上に新井氏がゐた。丸橋氏の姿が如何にも男々しく勇ましいー橋上の新井氏の姿を見てニツコリ笑つて挙手の礼をしてボートは水を切つて過ぎ去ったのである。…この時、新井氏の胸中には「よし!丸橋君が艦長になる時代にはこのおれだつて聯隊長になつて見せる!」と決心して軍人生活の第一歩に踏み入つた訳である。その後何かの機会でこの海陸の両将軍が相会した時、新井氏は丸橋氏に対しその時の発奮を語られたさうである。村人の誇りであつた海の将軍去り今また陸の将軍を失つて老幼ことごとく衷心から悲しみの色につつまれてゐる」(『新井亀井太郎小伝』)。
ひとつの村、ひとつの小学校から「陸士出」の陸軍中将と「海兵出」の海軍少将を輩出したことは「郷土の誉(郷土之華)」であった。新井も丸橋も郷土愛、母校愛の念が強く、母校にはしばしば贈り物をした。新井と丸橋が亡くなると、二人の頌徳碑が母校である境野小学校に建てられた。
同時期に桃井小学校に建てられた鈴木貫太郎の教訓碑も、こうした時代状況を反映していたことも忘れてはならない。
一般社団法人群馬地域学研究所代表理事
手島 仁
鈴木貫太郎(すずき・かんたろう)
1868年、和泉国伏尾(現大阪府堺市)に関宿藩(千葉県野田市関宿町)の藩士の子として生まれる。千葉県から前橋に移り、厩橋学校(現前橋市立桃井小学校)、群馬県中学校(現群馬県立前橋高等学校)で学んだ。海軍兵学校に進み、日清、日露戦争に従軍。連合艦隊司令長官などを歴任後、侍従長として昭和天皇に仕えた。1936年の二・二六事件で銃撃されたが一命を取り留める。1945年4月、首相に就任、同年8月、ポツダム宣言を受諾した。1948年、千葉県関宿町(現野田市)の自宅で死去する。享年81。