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学びたい
【鈴木貫太郎の群馬学的考察▶5】
教訓碑への二つの疑問
2025.03.05

桃井小学校は、昭和11年(1936)3月の卒業式で卒業生1万人に達することになった。そこで、羽鳥耕作校長は記念碑をつくろうと、卒業生の出世頭であった鈴木貫太郎に揮毫を求めた。海軍大将、侍従長兼枢密顧問官になっていた貫太郎は「正直に 腹を立てずに 撓まず励め」という言葉を贈った。
同校がこれを「教訓碑」として大切にしていることはよく知られている。私はかねてからこの碑に対して二つの疑問を持っていた。
私なりに答えを見つけたので、2回にわたり疑問と答えについて記してみたいと思う。
敗戦直後に撤去される
疑問のひとつは、敗戦直後にこの碑が撤去されたことである。桃井小学校の学校史『桃井校沿革餘話』(昭和42年)に次のように記されている。
「この碑は、終戦後、連合軍の進駐の際、鈴木先生が軍人であることをおもんばかって、一時六供町の高橋道郎氏のお宅に保管して頂き、その後同氏の力で、再度桃井校旧校舎の北方、正門入って右手の用務員室の近くに設置されたものであります」。
同書は昭和31年4月に校長に着任してから、在勤11年に及ぶ第11代校長・加藤守善氏が「校長のいられるうちに、桃井校の歴史についてまとめてほしい」と言われたのに応えてまとめたものであった。

▲『桃井校沿革餘話』の表紙
教訓碑は、昭和28年(1953)同校が開校80年を迎え記念式典を挙げる際に、高橋氏から返還され再建された。上毛新聞(昭和28年6月2日)は次のように報じている。
「終戦直後奉安殿の撤去と同時に地中に埋もれられるところだったのを、市内六供町六一米穀商、元市議高橋道郎さん(六二)が市議会土木常任委員で視察にいってこれを聞き「私が預かろう」と自宅に運搬、庭に建てた。髙橋さんは八十周年記念と聞き、学校において差支えないだろうと同校に返かんを申し出、二日同校に移転することになったもので、記念日の六日は未亡人鈴木孝子さん=千葉県関宿=も記念式に参加し、盛大な除幕式を行う」。
鈴木ヤエ先生の回想
私が疑問に思っていたのは、当時の関係者がどうして「鈴木先生が軍人であることをおもんばかって」、碑を地中に埋めようとしたかということであった。
上毛新聞の記事を読んでなるほどと思ったが、納得がいったのは、鈴木ヤエ先生の御話であった。鈴木先生は昭和6年(1931)生まれで、教訓碑が建立されてから桃井小学校に入学された。当時を知っている生き字引である。
個人的なことになるが、先生は私が上川淵小学校に在学中に4年と6年の時に担任をしていただいた。先生の社会科の授業が素晴らしいので社会科に興味を持ったことが、私が高校の日本史の教師になったことにつながっている。
鈴木先生はいまもお元気で大手町にお住まいで、私が前橋市へ出向して以来、再びご指導を仰いでいる。昨年4月に前橋鈴木貫太郎顕彰会を発足させる時も、当時を知る生き字引として、群馬会館で行われた発足式のシンポジウムに、貫太郎の孫・鈴木道子さんとともに登壇して頂いた。道子さんもヤエ先生も同年生まれであった。

▲鈴木道子さん(左)と鈴木ヤエさん=2024年4月
私がシンポジウムへの登壇を御願いに行った際、ヤエ先生は当時を回想し「私たちは登校するとまず、奉安殿に深々とお辞儀をして、その次に教訓碑に同じようにお辞儀をしました。そうして校舎に入ったものです」と言われた。
この一言で謎が解けた。教訓碑が奉安殿と同等に扱われていたので、当時の関係者が「おもんばかって」撤去したのであった。
勅令主義と教育勅語
我が国の近代教育は、明治5年(1872)の「学制」以来その創設に努力が重ねられた。初代文部大臣森有礼により小学校令・中学校令・帝国大学令及び諸学校通則など5種の学校令が出され、教育制度が体系化されたが、大日本帝国憲法と教育勅語の発布により再編された。
憲法により教育は天皇大権事項に含まれ、教育は勅令により規定される「勅令主義方式」が成立した。徳育方針も明治15年に制定された軍人勅諭にならって、同23年10月30日に「教育ニ関スル勅語」が、宮中において明治天皇から芳川顕正文部大臣に下賜され、翌年2月頃までにその謄本が全国の学校に交付され、6月には「小学校祝日大祭日儀式規程」が制定され、紀元節・天長節などの祝日・大祭日には勅語を奉読し、勅語に基づいた訓示をなすべきことが定められた。
それと前後し公立学校には「御真影」(天皇皇后の肖像写真)が下賜され、御真影への拝礼と勅語の奉読を内容とする神聖で厳粛な学校儀式が挙行されることになった。
上毛かるたで「心の燈台」と詠まれた内村鑑三は、明治24年1月に第一高等中学校に下賜された教育勅語の奉読式に、嘱託教員の立場で参列し「拒否でなく実はためらいと良心のとがめ」から拝礼せず、国賊と非難され辞職に追い込まれた。

▲上毛かるたの内村鑑三
ところで、このように整備されていった近代教育が定着することに、日清戦争の勝利で得た賠償金が役立った。賠償金の約3%を教育基金としその利子を普通教育費に充てることとし、明治33年に市町村立小学校教育費国庫補助法が公布され、義務教育費に対する国庫補助制度が整えられた。同年小学校令が全面改正され、4年制で無償制を原則とする義務教育制度が確立した。その結果、同35年には就学率も男女平均で90%を超え、「学制」で目標とされた国民皆学の実態が生み出された。
この時の小学校令改正の際に構想されながらも見送られた義務教育年限の6年制も、日露戦争後の明治40年に実現した。
御真影と奉安殿
『群馬県教育史』によると、明治21年(1888)に群馬県師範学校と群馬県尋常中学校に御真影が下賜されたのが群馬県では最初であった。2年後には郡立の12の高等小学校に下賜された。
明治24年「小学校設備準則」が出され、御真影と教育勅語の奉蔵場所の設置が義務付けられ、警護のために宿直制度が定められた。学校の宿直制度はこうして始まった。
当初は校長室の隣に奉蔵場所があるのが一般的であった。しかし、明治末期から屋外に奉安殿の建設が進められた。これは校舎の火災や地震などによる倒壊で御真影が危険に晒されることから、校舎外に独立して建てられるようになった。大正4年(1915)の大正天皇即位式(御大典)と同12年の皇太子(昭和天皇)ご成婚の記念事業として、県内でも50校以上で新築された。
その名称は御真影奉安所、安置所、奉置所、奉蔵庫などであったが、昭和期に入ると「御真影奉安殿」が一般的な名称として使われた。土蔵、コンクリート造りや銅板の屋根に周囲に生け垣や石垣などを施し、神社様式で神聖で荘厳に建てられることが多かった。
奉安殿に準じた扱い
教育勅語の趣旨の徹底を図るため、明治24年11月に「小学校教則大綱」が定められた。
修身教育については「修身ハ教育ニ関スル勅語ノ旨趣ニ基キ児童ノ良心ヲ啓培シテ其徳性ヲ涵養シ人道実践ノ方法ヲ授クルヲ要旨トス」と定め、「尋常小学校ニ於テハ孝悌、友愛、仁慈、信実、礼敬、義勇、恭倹等実践ノ方法ヲ授ケ殊ニ尊王愛国ノ志気ヲ養ハンコトヲ努メ」と命じた。
小学校の修身では、孝梯(こうてい)・友愛・仁慈(じんじ)・信実・礼敬・義勇・恭倹の徳目と「尊王愛国ノ士気」の涵養が求められた。
教育勅語発布以降の小学校修身教科書は、勅語に示された徳目を繰り返す編集の徳目主義となるが、明治30年代になるとヘルバルト派の教育思想の影響により、歴史上の模範的人物を中心として人物主義の修身教科書が現れ、その際にも人物に教育勅語で示された徳目を配置して編集され、教育勅語の趣旨は一貫していた。
桃井小学校において、御真影と教育勅語の謄本を安置した奉安殿が徳目主義の教科書的な表象ならば、鈴木貫太郎の教訓碑は教育勅語の趣旨の一貫したヘルバルト主義の修身の教科書的な表象であった。それゆえ教訓碑は奉安殿のように児童の最敬礼の対象とされた。

▲教訓碑の由来が書かれた説明版
GHQの指令
敗戦後の昭和20年12月15日、連合国軍総司令部(GHQ)は「国家神道についての指令」を出した。教育の四大指令と言われるものの一つであった。この指令は 神道を国家から分離し、学校での神道教育を排除することが目的で、実施要項として「学校内における神社・神詞(かみごと)・神棚・大麻・鳥居・注連縄(しめなわ)等は撤去すること。なお御真影奉安殿・英霊室など神道的表象を除去すること」と学校現場に通知された。
『前橋市教育史』によると、桃井国民学校では昭和20年12月20日の職員会議で「軍国色施設廃止ニ関スル件」として「奉安殿拝礼ハ個々デ誠心誠意ヲ以テ行フ、一斉奉拝ハ廃止。忠霊室ヲ廃止…。各教室二掲ゲタル鈴木貫太郎閣下ノ額ハ取リ除イテ倉庫へ。以上ヲ今週中ニ全部終了スルコト」が指示確認された。
奉安殿の中に安置された御真影(天皇皇后の肖像写真)は翌21年2月19日までに県庁へ奉還することになった。空になった奉安殿の建物撤去について、群馬県から通知が学校現場に出されたのは、7月10日であった。これを受け前橋市長は各国民学校に同月15日に「御真影奉安殿撤去」の通達を出した。
ところが、『前橋市教育史』によると桃井国民学校では、この通知の2カ月前に奉安殿の撤去作業が行われた。同校沿革誌には昭和21年「五月二十三日連合国軍総司令部ニヨリ本日ヨリ奉安殿取毀(とりこわし)作業開始、責任者高橋道郎氏」とある。通達前に奉安殿を撤去したのは、桃井国民学校だけでなく、東村国民学校(東小学校)は3月、中川国民学校は4月であった。
桃井国民学校では昭和20年12月に教室内にあった鈴木貫太郎の書を撤去し倉庫に、翌年2月には御真影を県庁に奉還し、翌21年5月には奉安殿の建物の取り壊しとともに教訓碑を撤去した。
一般社団法人群馬地域学研究所代表理事
手島 仁
鈴木貫太郎

1868年、和泉国伏尾(現大阪府堺市)に関宿藩(千葉県野田市関宿町)の藩士の子として生まれる。千葉県から前橋に移り、厩橋学校(現前橋市立桃井小学校)、群馬県中学校(現群馬県立前橋高等学校)で学んだ。海軍兵学校に進み、日清、日露戦争に従軍。連合艦隊司令長官などを歴任後、侍従長として昭和天皇に仕えた。1936年の二・二六事件で銃撃されたが一命を取り留める。1945年4月、首相に就任、同年8月、ポツダム宣言を受諾した。1948年、千葉県関宿町(現野田市)の自宅で死去する。享年81。