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【鈴木貫太郎の群馬学的考察▶6】
教訓碑 2つめの疑問

2025.03.13

【鈴木貫太郎の群馬学的考察▶6】
教訓碑 2つめの疑問

「撓まず」を読めたか

 教訓碑への二つ目の疑問は、鈴木貫太郎が揮毫した「正直に 腹を立てずに 撓(たゆ)まず励め」の中にあった。それは、「撓まず」という漢字が、当時の児童に読めたのであろうかということである。

 「撓」という漢字は、漢和辞典(『漢辞海』三省堂)を引くと「①みだす。みだれる・ミダル。②たわむ。たわめる。タワム」とある。国語辞典(『現代国語辞典』同)で「たゆまぬ」と引くと、「弛まぬ」と出てきて、意味は「気のゆるむことがない。油断のない」、用例として「弛まぬ練習」「弛まぬ努力」と出てくる。「撓」の字は「不撓不屈」という四字熟語としてなじみがある。同辞典には「困難なことに出あっても、決してくじけないこと」、用例として「不撓不屈の精神」と出てくる。

 したがって、現代ならば「撓まず」=「たゆまず」と読むことは難しいと考えられる。私自身も桃井小学校の卒業生ではないので、最初は読めなくて困った。

国定教科書の採用

 明治20年前後に近代学校制度が整えられると、国民教育の根本精神が重要な問題として議論された。その結果、前回述べたように教育勅語が成立した。教科書は明治19年(1886)の小学校令によって検定制度が実施され、採択方法は地方長官(知事)が審査委員を任命して決定することになった。

 しかし、この制度が審査委員と教科書会社との間に贈収賄事件を引き起こし、明治35年、「教科書疑獄事件」が発生した。その範囲は群馬県はじめ30府県以上に及び、全国規模の大事件となった。その結果、翌36年小学校令が改正され、同37年から国定教科書が用いられることになった。

▲明治20年代の教科書

二宮金次郎が教科書、唱歌に

 明治37年(1904)に国定修身教科書が登場すると、二宮金次郎(尊徳)は3年生用で採用された。国定教科書は昭和17年(1942)の改訂まで5回改訂され、金次郎は毎回採用されたため、二宮金次郎を知らない小学生はいなかった。

 明治44年には「二宮金次郎」という歌が文部省の『尋常小学唱歌』(第二学年用)で登場した。「手本は二宮金次郎」と口ずさまれ、「勤倹力行」のシンボルとなった。歌の歌詞を全部紹介しよう。驚くべき発見がある。

  • 柴刈り縄なひ草鞋(わらじ)をつくり/親の手助(てだす)け弟を世話し/兄弟仲よく孝行つくす/手本は二宮金次郎
  • 骨身を惜まず仕事をはげみ/夜なべ済まして手習(てならい)読書/せはしい中にも撓(たゆ)まず学ぶ/手本は二宮金次郎
  • 家業大事に費(ついえ)をはぶき/少しの物をも粗末にせずに/遂(つい)には身を立て人をもすくふ/手本は二宮金次郎

 唱歌「二宮金次郎」の2番の歌詞に「撓まず」=「たゆまず」と出てくる。当時は小学校2年生になれば、唱歌の時間に「撓まず=たゆまず」と歌って覚えたのである。

小学校の金次郎像

 日本で最初に小学校に建てられた金次郎像は、大正13年(1924)に愛知県豊橋市前芝小学校に建てられたセメント像であったといわれている。薪(柴)を背負ったものでなく、左肩に弁当を入れた魚(び)籠(く)を下げ、右手に本を読んでいるものであった。

 昭和3年(1928)、昭和天皇の即位を祝った「御大典奉祝名古屋博覧会」が開かれた。この博覧会に金次郎の石像が出品された。石像金次郎の第1号であった。これが評判となり、全国の小学校に建設してもらおうと、愛知県岡崎市の石材業者が「二宮尊徳先生少年時代之像普及会」を組織し販売促進に力を入れた結果、全国の小学校から岡崎市の石材業者に注文が殺到した。金次郎の銅像は、富山県高岡市や大阪などの業者が石像と同じく昭和3、4年頃に造り出した。

 昭和7年、斎藤実内閣が経済不況打開から「勤倹力行」をスローガンとすると、「勤倹力行のシンボル」である金次郎像がよく売れるようになった。金次郎は背負っている柴は、鋳造や石造では難しく薪となった。

 二宮金次郎像は文部省の指導ではなく、石材業や鋳造業などの業者が時流をうまく利用してセールスすることによって普及したことが研究で明らかにされている。

▲二宮金次郎像=前橋市立二之宮小

群馬県独自の小学校風景

 昭和10年代の僅かな期間であるが、群馬県独自の小学校風景がつくられた。紙幣の肖像画になった渋沢栄一によって、昭和2年(1927)日米親善のためアメリカから贈られた「青い目の人形」が全国の小学校に配られた。『前橋市教育史』によれば、群馬県には142体の人形が割りたてられ、県教育会の主催で歓迎会が開かれ、学校に配られた。

 二宮金次郎は、県内を調査した限りでは昭和9年から小学校に建て始められた。校内に青い目の人形、校外に二宮金次郎像がある風景が昭和初期には全国の小学校では一般的になったが、さらに群馬県では新田義貞の銅像が建立されるようになった。

 義貞像の建立のきっかけは、昭和13年(1938)が新田義貞戦没600年であったことから、群馬県教育会が「戦没六百年祭」を最優先事業として、県内の学校教育・青年団教育にその徹底を図ったことであった。群馬県が県の「公祭」として5月22日に「新田公戦没六百年祭」を行うと、県内の小学校ではそれに呼応するように、新田義貞像が建立された。

 桃井小学校では昭和15年(1940)11月10日に卒業生の拠金(桃井小学校後援会、総工費670円)で皇紀2600年記念事業として「新田義貞の遺芳を仰ぐと共に同校出身勇士の忠烈を偲ぶと勲功を偲ぶため」建立された。台座には鈴木貫太郎が「忠烈 海軍大将男爵鈴木貫太郎謹書」と揮毫した文字が刻まれた。

 しかし、昭和16年の日米開戦で、青い目の人形は焼却処分され、金属類回収により二宮尊徳と新田義貞の銅像は供出された。桃井小学校では昭和17年10月29日に「新田公・二宮翁銅像供出」となった。

▲青い目の人形と答礼の日本人形=前橋市総合教育プラザ

金次郎評価したGHQ

 敗戦後、学校には御真影奉安殿と石造で出来た二宮金次郎像が残った。一般的に二宮金次郎像も奉安殿と共にGHQの命令で撤去されたと思っている人が多い。しかし、これは明らかな勘違いである。

 GHQは占領当初から二宮金次郎を高く評価し、小学校などにある金次郎像を保存するよう指示した。昭和21年(1946)6月1日、GHQの新聞課長インボデン少佐は大日本報徳社(静岡県掛川)を訪れ、「二宮尊徳翁は、アメリカのアブラハム・リンカーンにも比すべき人物である」「日本が生んだ最大の民主主義者」と絶賛した。

 戦争末期にアメリカ軍は爆撃戦闘機B29から戦争終結を勧めるビラを散布した。ビラの中には二宮尊徳の肖像が描かれているものがあって、「民主社会建設のために生涯を捧げた民主主義の先覚者二宮尊徳に学べ」「真の平和主義を実践した偉人二宮尊徳を忘れるな」「尊徳精神に還るとき永遠の世界平和が訪れる」と書かれていた。

 アメリカ軍が二宮尊徳を持ち出して平和を訴えたり、GHQが二宮金次郎像を保存したりするように指示したのは、内村鑑三の『代表的日本人』が英語文化圏で読まれ、「農民聖者・二宮尊徳」が広く伝わっていたためと言われている。

 大蔵省も昭和21年3月に1円札を発行すると二宮尊徳の肖像を採用することに決定し、GHQはこれを肯定した。

 小学校の石像の金次郎像が撤去破壊されたのは、GHQに過度に「おもんばかった(忖度)」結果であり、思想的に扇動された人々によるものであった。

 「正直に 腹を立てずに 撓まず励め」という文言の教訓碑であっても、こうした状況下で、GHQと渡り合い、思想的に扇動された人々から、そのまま守ることは難しかったであろう。高橋道郎氏に預かってもらったという判断は賢明であった。当時の関係者に敬意を表したい。

一般社団法人群馬地域学研究所代表理事
手島 仁

▲生品神社の新田義貞像

鈴木貫太郎

1868年、和泉国伏尾(現大阪府堺市)に関宿藩(千葉県野田市関宿町)の藩士の子として生まれる。千葉県から前橋に移り、厩橋学校(現前橋市立桃井小学校)、群馬県中学校(現群馬県立前橋高等学校)で学んだ。海軍兵学校に進み、日清、日露戦争に従軍。連合艦隊司令長官などを歴任後、侍従長として昭和天皇に仕えた。1936年の二・二六事件で銃撃されたが一命を取り留める。1945年4月、首相に就任、同年8月、ポツダム宣言を受諾した。1948年、千葉県関宿町(現野田市)の自宅で死去する。享年81。