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聞きたい

【聞きたい映画監督 清水崇×俳優 手島実優3▶︎】
「眠る男」で学んだ映画作り 伊参映画祭で出演作上映

2022.05.11

【聞きたい映画監督 清水崇×俳優 手島実優3▶︎】
「眠る男」で学んだ映画作り 伊参映画祭で出演作上映

「呪怨」シリーズで知られる「ホラー映画の巨匠」清水崇監督。恋愛映画に立て続けに出演し存在感を発揮している俳優、手島実優さん。隣町出身の2人は共通点を持ち、互いにリスペクトする。対談の最後に「me bu ku」編集室がお願いしたオファーは何か―。

サム・ライミとの大きな縁

清水 僕は中学生のころ、友達の家のVHSでホラー映画をたくさん観せられました。ホラーは当時、C級扱いで権利が安かったので出回ったんですね。その中の一つが「死霊のはらわた」。後に大きな縁で結ばれるサム・ライミ監督が大学生の時に作った作品でした。

―映画の世界に入ったのはどんな経緯だったのですか?

清水 中学時代からビデオクラブを起ち上げたりして映像を撮っていて、演劇を学べる大学に行った。大学を辞めて京都の映画館で働いていた時、群馬県が「眠る男」という映画を作ることになり、スタッフを募集していて、そこにもぐりこんだ。小栗康平監督の面談を受けて「何でもします」って。それが初めての現場でした。

県人口200万人を記念し、当時の知事の肝いりで制作したんですよ。「眠る男」観た?

手島 いえ、すみません。まだ生まれる前だったかも(笑)。

清水 中之条町の山奥の廃校になった小学校を再利用して1年以上、合宿していました。

手島 伊参スタジオですよね。そこは行ったことがあります。映画で使われたセットとか置いてあって。伊参スタジオ映画祭で出演作品を上映してもらいました。

清水 それ、僕が作ったの。泊まれるようベッドを運んだり、暖房器具を設置したりと「何でも担当」で。その後、空いた小道具のポジションに移ったら、直属がとても厳しい先輩で、怒鳴るは殴るは蹴るはで、前任者が辞めたのがわかりました。しかし、その先輩も監督志望だったのを知り、よし、この人より先に監督してみせるぞと心の中で叫び耐えました。

でも、僕も甘い考えだったので厳しさを知り、いまでは彼に感謝しています。

―映画作りは勉強になりましたか。

清水 はい、ものすごく。小栗監督は画というか情景にこだわる方で、一つの場面を撮るのに1カ月も2カ月もかけることもあった。妥協を許さない姿勢に感銘を受けました。

―清水監督といえば「呪怨」。最初はVシネマでお撮りになったんですよね。劇場版が大ヒットし、ハリウッド・リメイク版は全米興行で1位。日本人監督初の快挙でした。

清水 リメイク版は最初断ったの。もう、「呪怨」はお腹いっぱい。もう、ホラーはいいやと考えていたので。でも「こんなチャンスはめったにない」と説得され、プロデュースしてくれるというサム・ライミに会いにLAへ行った。そしたらサムはVシネマ版からきちんと観てくれていて、「監督をしてくれ」と頼まれて。あの「死霊のはらわた」の監督が直々に…と。そうなったら、断れないですよ。

サムは非常にいたずら好きで、僕と似ているんですが、ちょうど、スパイダーマンⅡの撮影をしていて、スタジオで「次は清水が声を掛けてみなよ」と。「アクション」「カット」なんて代わりに叫びました(笑)。

「スパイダーマン」大好き

手島 それは貴重な経験ですね。羨ましいです。スパイダーマンシリーズ、大好きなので。

清水 実は初めての海外。ファーストクラスに乗って、空港に着いたら大きなリムジンが待機していて。完全にVIP待遇でした。完成した後のプレミア上映では、ゲストも呼べるので当時付き合っていた、いまの妻を招待しました。その時に、思い切ってプロポーズしました。

手島 すごい経験でしたね。ハリウッドのスケールは日本では想像できませんね。で、結婚式はされなかったのですか。

清水 しなかった。少し後になって沖縄の無人島で密かにお祝いしましたが。

しみず・たかし

19727月、前橋市生まれ。若宮小―第四中-中央高-近畿大演劇専攻中退。99年、Vシネマ「呪怨」が話題に。劇場版を経て、2004年、ハリウッドリメイク版が日本人初の全米1位。近作に「ホムンクルス」や「犬鳴村」、「樹海村」、「牛首村」の村シリーズ3部作などがある。

てしま・みゆう

1997 10 ⽉、前橋市⽣まれ。勢多農⾼卒。⾼校時代に伊勢崎市を舞台にしたまち映画「グリモン」で映画デビュー。2022 年は前橋市出⾝の飯塚花笑監督の「フタリノセカイ」をはじめ、「猫は逃げた」、「階段の先には踊り場がある」で主要キャストを務めた。