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【昭和高校球児物語-前高 完全試合のキセキ-▶︎19】
高校1年秋-4

2023.03.13

【昭和高校球児物語-前高 完全試合のキセキ-▶︎19】
高校1年秋-4

関東大会で東海大相模と対戦

秋季県大会の優勝によって秋季関東大会への出場が決まった。関東大会はその結果次第で翌年春の選抜甲子園に繋がる大会である。ただこの時、選抜を意識していた部員は恐らく数えるほどだったと思う。川北はまったく考えてもおらず、他県の有名校に名前負け、気後れしていたのが正直なところだった。

関東大会は山梨県の甲府での開催であった。初戦の相手は東海大相模高校。この時の東海大相模高校は、ジャイアンツ監督を歴任している原辰徳氏をはじめとした黄金世代が引退した直後。とはいえ神奈川=東海大相模高校の時期であり、原氏の父親、貢氏が監督を務める光り輝く名門強豪校だった。

甲府遠征に先立つ校内壮行会では壇上に野球部員13人が全員並び、安藤敏彦主将は「僕らチビッ子軍団の武器は、何くそと思うひがみ、ねたみ根性だ!東海大相模、別名トウカイオオズモウは相手にとって不足はない!むしろ格好の相手だ!」と煽って大うけだった。

遠征日程が2年生の京都・奈良修学旅行日程と被ってしまっていたが、もちろん5人の2年生は大会を優先した。ただ、大会で敗戦したらそこから修学旅行に合流する準備をして臨むことになったのだった。

▲人気漫画『嗚呼‼花の応援団』の表紙

本場のツッパリに衝撃受ける

甲府遠征は上越線で東京まで向かい、中央線で甲府に向かうのだが、新宿駅で特急に乗り換える際に、ツッパリ同士のやりあいを見かけた。

当時、どおくまんプロの『嗚呼‼花の応援団』という漫画が人気であった。喧嘩ではなく睨み合いなものの、双方のファッションが完璧であったのに衝撃を受けた。

襟の高い長ラン、太っといボンタン。長ランもボンタンもボンタンのプリーツ以外に一切のしわがなく高そうな毛の生地。靴もピカピカのとんがり靴。頭はリーゼントできっちり固め、角度のついた漆黒のサングラス。無精ひげなどの汚さや野暮さが微塵もなく高級感さえ漂う。

空気やオーラが全く違い、カミソリ感を感じさせるたたずまい。東京は凄え…恐ろしい。心底恐怖を感じた。

甲府の緑が丘球場が大会会場だった。大会前日のマエタカの公式練習時間を終えて、東海大相模高校の練習を見学した。まずその人数に圧倒された。体格の良いシャープな動きをする何十人もの集団。それぞれに無駄な動きは一切なく、一つのポジションに少なくとも3、4人ついている。

球場内外野のスタンドにも部員が配置されている。打撃練習でもノックでもスタンドに打球が入るのが珍しくない。これが東海大相模であった。

相手のユニホームに感嘆

翌日の開会式。秋の関東大会には東京は日程上の関係で参加せず、この時は各県の優勝校と開催県である山梨の準優勝校までの全8チーム。神奈川・東海大相模高校、千葉・銚子商業高校、茨城・土浦日大高校、埼玉・春日部工業高校、栃木・作新学院高校、山梨・日川高校、吉田高校、そして我らのマエタカであった。

入場行進を先導する女子高校生がいた。あらかじめどこのプラカードを持つかは決まっていなかったのだろう。入場行進整列時に彼女たちは我先へと東海大相模高校、銚子商業高校、土浦日大高校のプラカードへと殺到した。当時の人気ランキング上位高校がしのばれる。

▲豪華な東海大相模高野球部のユニホーム

入場行進前の整列で隣の東海大相模高校の選手たちと話す機会があった。彼らの体格のよさにも圧倒されたが、身に着けているものが全く違っていた。

まず帽子。彼らの帽子は毛の生地でマークのTは金糸の刺繍であった。こちらは普通の野球帽にMのアップリケ。

ユニフォームの生地、彼らはおなじみの縦縞だが若干ニットの織り込まれた伸縮性のあるもの。こちらはパンパン、ペラペラの木綿生地。彼らの上着の左肩には校章の厚い刺繍ワッペン、袖には赤糸でSAGAMIの刺繍。胸のTOKAIの文字、背中の背番号も黒糸と周りに金糸の刺繍である。こちらの胸文字、背番号はアップリケの縫い付け。

さらに彼らのストッキングは毛。こちらは引っ張ると色が薄くなりながら伸びる化繊のもの。恐らく彼らの帽子だけでマエタカ選手のユニフォーム一式は揃うと思われた。

マエタカの陽気な1年サード堺晃彦が、「いいんね~。触らせて。おーすっごい。すっごい。これはいいわ」と素直に感嘆していた。

そんなアプローチに、「そうかなあ…。でも、確かに着やすいよ」と気さくに応じてくれる東海大相模高校ナイン。ああ、超有名名門校だけど同じ高校生なんだっと、新宿駅で感じた都会の恐怖がこんなところで薄まっていくのだった。

巨人・原監督も応援に駆け付け

いよいよ試合開始。平日ということもあり一塁側マエタカスタンドは閑散としていた。学校は遠隔地でもあり授業優先で一般生徒が応援に行くのを禁じていたらしい。学校に怒られるのを覚悟した数人の顔見知りが来てくれていた。

一方、三塁側東海大相模高校スタンドは応援団もさることながら野球部員で溢れかえっていた。整然とした都会的な応援。マエタカベンチからの野次もこの日は少し大人しかった。

序盤は拮抗した展開となったが、徐々に東海大相模高校の打球の速さと強さに押されるような展開となり加点された。内野をゴロで抜けた打球が外野の間も切り裂いていくのだった。1対6。敗戦であった。しかし野球というゲームでの競い合いで渡り合った感覚はあった。精一杯やりきれたと思えたのだ。

試合後、5人の2年生たちは胸を張って修学旅行へ向かった。5人の笑顔が清々しかった。

▲原監督の高校時代。甘いマスクで人気を集めた

試合後に球場横で東海大相模3年生だった原、津末英明、村中秀人を見かけた。後輩の応援に来ていたのだろう。

「群馬のピッチャー、結構速かったよな」

彼らのコメントが聞こえ、少しうれしかった。

気が付けばもう11月。こうして秋のシーズンは終わった。関東大会の結果を一番悔しがっていたのは小平さんだった。

「春の甲子園への千載一遇のチャンスだったんだよ!。君たちは春の関東大会にも行っているからピンと来てないかもしれないけど。またこのチャンスに来るには広木政人(富岡高校)の速球も、古井戸浩通(前橋工業高校)のドロップも打たなきゃならないんだよ!分かるかい?」

「はあ…」

そう返すしかなかった。

かわきた・しげき

1960(昭和35)年、神奈川県生まれ。3歳の時に父親の転勤により群馬県前橋市へ転居する。群馬大附属中-前橋高―慶応大。1978(昭和53)年、前橋高野球部主将として第50回選抜高校野球大会に出場、完全試合を達成する。リクルートに入社、就業部門ごとMBOで独立、ザイマックスとなる。同社取締役。長男は人気お笑いコンビ「真空ジェシカ」の川北茂澄さん。