interview
聞きたい
【昭和高校球児物語-前高 完全試合のキセキ-▶︎31】
高校2年夏新チーム-3
2023.04.01
長野遠征 強豪校と引き分け
1977(昭和52)年8月18日、長野県に遠征した。長野は頻繁ではないが近県でもあって年に1、2回はあった。
この時は野球強豪校、丸子実業高校(現丸子修学館高校)との試合だった。当時、丸子実業高校は長野県の甲子園出場を松商学園高校と争い、甲子園出場回数も北海道の北海高校と競い合うような甲子園常連校であった。さすがに名門強豪校だけに部員数も多く、体格も大柄な選手が多かった。
この試合、川北は眼鏡のツルで耳を怪我していたこともあり、眼鏡なしで出場していた。この時はまだ近眼は右眼だけだったので曇り空であったが何とかプレーできた。
が、中盤、三塁に相手ランナーがおり、松本稔が超山なり牽制球を投げてきた。えっ、えっ、あれっと遠近感を失い、球をグローブに当ててポーンと後ろに逸らしてしまった。
焦った。超大慌てで球を追った。しかし、超山なりの球であったので勢いもなく2㍍ほど後ろに転がっただけであった。ランナーもそのまま。むしろ川北の焦りっぷりだけが際立って両チームに鼻笑いの気配だけがあった。赤面した。
バッターがサードゴロを打ってきた。恥ずかしさと気合とが混ざり合って、「っしゃー、おれっ!」 と訳の分からない気合とともに思い切りファーストに投げた。佐久間秀人がキッチリ格好良く捕球してくれてうれしくホッとした。
この試合中、珍しくショートの堺晃彦とセカンドの田口淳彦を入れ替えたりもした。田口はあまり肩が強くないことは、みなの共通認識だったので、三遊間の寄りのゴロを彼が逆シングルで捕球した際に、すぐ横の川北をはじめとして守備中のメンバーの多くが、「叩け~っ!」と大声を上げた。
ノーバウンドでのファースト送球にこだわらずにバウンド送球で良いから強く低い球を投げろの意味だ。田口は送球を叩き過ぎて目の前でバウンドさせ、ファーストへはほぼゴロとなって到達するものになった。
もちろん打者をアウトにはできず、ファーストの佐久間が前に出て捕球した。後々の笑い話のネタになったのは言うまでもない。
この練習試合は同点引き分けだった。4対4だったはずだ。マエタカは帰りの電車の時間の関係もあったので延長はしなかった。
丸子実業高校はさすがに野球名門だけありセンスを感じさせるプレイヤーが揃っていた印象であった。しかし残念なことにこの代はこの練習試合直後に不祥事が発覚し、1年間対外試合禁止処分になってしまう。
その後、運営に苦しみながら1年間部活動は継続したらしい。恩赦的な減罰措置もなかった。こういった事象の事実の重さは当事者でないと分からないだろう。多くは語れないが、残念としか言いようがない。本人たちはさぞかし辛かっただろう。
後に丸子実業高校のこの代の主将が慶応義塾大学野球部でプレーしていた。川北も野球部には入らなかったが、慶応義塾大学に在籍した。心から応援したのはいうまでもない。
桐高との試合は「探り」
この代の因縁の相手、桐生高校(キリタカ)との練習試合、最初は8月28日だった。マエタカグラウンドにキリタカがやって来た。
やはり前年の秋季大会決勝で戦っているだけに、この代への期待感の高いキリタカとしてもマエタカを早めに潰しておきたかったのであろう。
ダブルヘッダー形式の1試合目。マエタカは松本稔が先発。初回、キリタカ1番、2番が倒れた二死から主将のセンター、和田真作、ピッチャー、木暮洋、ファースト、阿久沢毅の3人の中軸に完璧な当たりの3連続長打を浴びた。
若いカウントから平然と打たれた感があった。後日、松本はこの時には「探り」を入れたと語っていたが、マエタカに与えた衝撃は大きかった。「モノが違うのか?」と思わせられた。左中間、右中間を抜けていく打球の音と速さが違う印象もあった。
それでも試合展開は結構、マエタカが食い下がり、2試合とも負けはしたが圧倒されての負けではなかったと思う。
ダブルヘッダー2試合目の方がより僅差だったように記憶する。2試合目の試合終了は二塁ランナー川北の三盗死だった。
2試合目だが途中から木暮が投げており、左腕であるので三盗しやすいとの読みでのサインであったろう。しかしまったくよいスタートが切れず、余裕でアウトになった。その時打者であった相澤雄司に後々まで叱られた。
「てめー、ふざけんなよ。サインでもスタート切れなかったら走るんじゃねえよ。それは暴走だよ。お前の完全アウトの暴走と、この先も対戦する木暮と俺との打席、どっちが大事だよ!」
「すまん…」
ごもっとも、ごもっともであった。
キリタカとの因縁の始まりではあったが、当時は特別な意識はもちろんなかった。「強いなあ~」とは思ったが。
大化けするための核心探す
東中出身の1年生、竹井克之は川北と家が一番近く、この頃は帰り道、佐久間秀人を含めて3人で自転車帰宅していた。
竹井はマエタカ野球部の中では大柄で、敏捷性、瞬発性は若干劣るが重たい球を投げる控え投手を務めていた。捕手の高野と同様に口数が少なく、「先輩、先輩」と朴訥に慕って来る可愛い後輩でもあった。
入部して最初のバッティング練習で竹井は大飛球を連発したことがあり、バッティングに悩んでいた川北は「何でそんなに打てる?どうして?何を考えて打ってる?」と帰り道に尋ねまくったことがあった。
その時、困りながらも何か答えなければと真摯に見返してきた彼の目線は忘れられない。しかも、竹井自身も大飛球を連発した打撃はその時のみで、以後はなかなか思うに任せぬ状態が続くのだった。
そんな事象を経験していると、何かの拍子やきっかけで大化けできることが逆に可能ではないかと思えてしまう。
川北自身の前年のタカタカ定期戦もそうであった。恐らくそれは可能性としては間違いなく有り得るのだろう。当時は砂漠でビーズを見つけ出すかのように、大化けするための自分のプレーの核心を何とかして探し出したいと日々もがいていた。
いまにいたっても、年を経てゴルフにはまり、長年練習を繰り返してきている。何かに開眼したと思いきや、次回にはまた違う開眼が必要になる。
練習を繰り返し、開眼を繰り返すことで少しずつ核心に近づいてはいるのだろうが、その間に自分の体のフィジカル変化も起こってしまう。そうすると核心とは追いかけっこをしていることになる。
しかもそこにメンタル要素が加わるという構造も還暦を過ぎて知ることになった。スイングが良くなっても結果としてのショットが良くなることに直結しないのだ。
こうしてみると「才能」とは意識せずに「自分のプレーの核心」をグリップする力なのだろうと思う。「自分のプレーの核心」をグリップしてプレーしていれば失敗やミスの経験、記憶も刷り込まれないからメンタルが揺らぐこともない。
一方で「自分のプレーの核心」をグリップできず、失敗、ミスの経験、記憶を蓄積していると、前に進むにはその経験、記憶を一掃できるだけのプロセスや時間が相応に必要になってしまう。
何とも残酷な話ではないか。下手ほど苦労するというわけである。
この時はまだ、川北は努力でそれを何とかできないかと必死だった。時間も限られていることを実感するのも後のこととなる。
かわきた・しげき
1960(昭和35)年、神奈川県生まれ。3歳の時に父親の転勤により群馬県前橋市へ転居する。群馬大附属中-前橋高―慶応大。1978(昭和53)年、前橋高野球部主将として第50回選抜高校野球大会に出場、完全試合を達成する。リクルートに入社、就業部門ごとMBOで独立、ザイマックスとなる。同社取締役。長男は人気お笑いコンビ「真空ジェシカ」の川北茂澄さん。
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