interview
聞きたい
【昭和高校球児物語-前高 完全試合のキセキ-▶︎30】
高校2年夏新チーム-2
2023.03.28
不動のラインアップが完成
8月7日、最初の練習試合。相手はまた、マエタカOB、東野威さん率いる富岡高校(トミオカ)である。この代のトミオカも好投手、右横手の折茂政夫を擁し、この先の秋、春はベスト4、夏ベスト8に出てくるチームとなった。
だが、この練習試合の際にはそんなことは先の話である。むしろ自分たちがどんな編成になるのか興味津々であった。
ラインアップは次の通りだった。
1番 三塁 川北 茂樹(右投左打)
2番 遊撃 堺 晃彦(右投右打)
3番 右翼 相澤 雄司(右投左打)
4番 投手 松本 稔(右投右打)
5番 一塁 佐久間秀人(右投右打)
6番 捕手 高野 昇(右投右打)
7番 左翼 石井 晃(右投右打)
8番 中堅 茂木 慎司(右投右打)
9番 二塁 田口 淳彦(右投右打)
このラインアップはその後、結果的にほぼ1年間変わらぬオーダーとなった。新チーム最初の練習試合からラインアップが1年間変わらないことは奇跡的なことだと思う。
こう書くと運命的な要素を感じなくもないが、逆に言うと選手層が薄く、これしかオーダーを組めなかったと言ってもよいだろうし、それが現実だったと思う。
前チームからのレギュラーであった堺、相澤、松本、佐久間。この中軸がまさにこの代のマエタカ攻撃の中核であり、大概の投手は打ち崩すことになる。
会心の当たりはピッチャーゴロ
新チームのスタートとなる初打席はいまでも覚えている。改めて1番バッターということでバットを一握り半短く持って臨み、うまくミート出来たが痛烈なワンバウンドのピッチャーゴロだった。会心の当たりだったのだが。
以降、会心の当たりはほぼワンバウンドのピッチャーゴロとなり、ボテボテや、ドン詰まり、当たり損ね、叩きつけた高いバウンドゴロが、懸命に一塁に駆け込むことで安打になっていくことになった。
走りながら打っているつもりはなかったが、そのように評されもした。何だか会心の打球のピッチャーゴロアウトはその後を暗示していたような気もする。芯でミートするとアウトになるのだった。
試合展開の詳細は覚えていないが、トミオカ戦は2、3点差で勝利したはずだ…と思って記録を見ると2対7で負けていた。
入学以来、トミオカに負けていなかったこともあり、苦手意識もないゆえに敗戦の擦り込みがなかったのかもしれない。
同じ日に前橋南高校(マエナン、ミナミ)とも試合を行う変則ダブルヘッダーで、そちらは勝利していた。決して特別感のある新チームのスタート試合でなかったことは確かであった。
打撃は当たり前にまだまだだったが、造られた左打者の利点も感じ始めた。ボール球が打てないのである。スイング練習はストライクゾーン球への対応で練習していたのでそのゾーン以外を振れないのだった。
言い換えると「振れない球はボール球」であり四死球獲得には役立つこととなった。ただし、これは「ストライクゾーンは全部打てる」ではない。「ストライクゾーンは全部振れる」であり、ストライク球の空振りも半端なく多かった。まあご愛敬である。
ちなみにエースで4番、副主将でもあった松本にはこう言われた。
「カワキタ~、右に戻さないんかい?右の方が軸がしっかりしてるし、引っ張りバッターでいいんじゃねえの。定期戦の時の感じでさあ」
技術的なアドバイスもいただける内山先生からは、「右のままなら6番くらいにいて、1試合に1本長打を打つ感じになれば面白いと思っていたけどなあ。チームのために足を生かす発想が1番カワキタだわなあ」。
悩む価値、考える意味はあることだったといまでも思う。上半身の脱力と自然体で球を待てる集中力を何とかできれば右打ちの中距離打者としてやれたかもしれないといまなら思える。
しかし、当時は自分の打撃課題を明確に自覚できず、懸命に取り組んできたのにモノにならなかった右打ち打撃の現状を何とか打開しなければならない状態で、左打ちが唯一のよすがだったのだ。
しかも始めてまだ数週間。しがみついてやるしかなかった。
前高のエース 松本の自覚
8月の半ば、練習お盆休みが1日あった。恐らく監督、OB諸氏、先生方もお墓参りその他の予定があるからだろう。
同級生8人組は海水浴に行こうとなった。行先は新潟県柏崎市近くの鯨波海水浴場。当時、群馬県からの海水浴と言えばそこだった。川北だけかもしれないが、小さい頃「海=鯨波」位の認識があった。決して湘南や外房ではなかったのだ。
新前橋駅に早朝、集合時間を決めて上越線、北陸本線を乗り継ぎ鯨波駅に向かった。ちょうど台風が西日本に来ており天候は微妙。駅から海水浴場にいたる道すがら含めてほとんど海水浴客はいなかった。空は暗く、風は強く、波はやや高く、海の家は貸し切り状態であった。
それでもウキウキと着替え、大型タイヤチューブの浮き輪を借りて泳ぎに出た。日本海特有の海の黒さと台風影響の波のうねりが、思い浮かべていた解放感よりは泳ぎに重さをもたらしてもいた。
松本は1人、着替えず、泳がなかった。
「ん~、俺はやめとくわ。ここで寝てるよ。風も気持ちいいし」
と、海の家の畳にゴロンと転がっていた。その時は風邪っぽいのかなくらいに思っていたが、これはチームに頼れる投手が1人しかいない状態への自覚がなせる自重だったのだろうといまはわかる。
つい最近のマスコミの取材で松本が話していた。
「あのころは、自分がいつも先発して完投しなければ試合が成り立たない。いつもその前提をおいて投げていました。どれだけ大量点で勝っていても、逆に負けていても、です」
投手は泳いではいけない…うんぬんはなくなりかけていて、むしろ肩回りの筋肉強化と柔軟性の向上には水泳がよいと言われ始めていたころ。確か、松本のバタフライは体育の授業ではあるが、学年でもトップクラスであったはずだ。
が、遊びに来て、台風で荒れる海、自分の体調、を考慮して泳ぐのをやめたのだろう。頭の下がる自覚と覚悟である。
代々のエースだった石山佳治先輩、小出昌彦先輩の姿をわがことと刻み込んでいた。
かわきた・しげき
1960(昭和35)年、神奈川県生まれ。3歳の時に父親の転勤により群馬県前橋市へ転居する。群馬大附属中-前橋高―慶応大。1978(昭和53)年、前橋高野球部主将として第50回選抜高校野球大会に出場、完全試合を達成する。リクルートに入社、就業部門ごとMBOで独立、ザイマックスとなる。同社取締役。長男は人気お笑いコンビ「真空ジェシカ」の川北茂澄さん。