interview
聞きたい
【昭和高校球児物語-前高 完全試合のキセキ-▶︎26】
高校2年夏-1
2023.03.23
守備は上達、打撃に課題残る
夏に向けた練習は質、量ともに唸りをあげていくように濃密になっていった。
このころ、川北はバッティングピッチャーとして連日投げまくっていた。複数カ所のバッティングでまず200球程度投げ、その後の1カ所バッティング、ケースバッティングでも100~200球投げていた。球威、球速、コントロールともに日々磨かれていくように感じていた。
こう書くと投手の練習をしているように思われるかもしれないが、まったくその認識はなかった。全身のバランスと肩を鍛え、切れのある縦回転の速球を投げることのみに徹していた。
事実、ケースバッティングでセットポジションでの牽制球を組み合わせる必要があっても、その動作をマスターしようという気は起らなかった。
ポジションとしては外野手、ライトを練習していた。ライトでのレギュラー獲得に本来なら執念を燃やすべきなのだ。まあまあの足と肩の強さもあって守備は様になって来ていた。右打者のライト線に切れていく打球の対応も意識しなくても体が反応するようになっていた。
しかし、バッティングの結果が芳しくなかった。練習では冬のトレーニング成果もあって球足の速い、強い打球を遠くへ飛ばせるいっぱしの中距離打者風にはなっていたのだが、いかんせん試合の打席では上半身の力みが取れず、自然体で待球できるメンタル力が身につかず、ほとんど三振だった。
タカタカとの定期戦での大活躍のことなど、みなもとうの昔に忘れており、本人でさえ「そんなことあったっけ?」であった。
そんなことよりとにかく目の前の練習に一心不乱に全力で取り組んでいた。この、「練習自体が目的化していることが駄目」であることに、本当の意味で気付くのはまだまだ先であった。
生まれて初の零点 大嫌いな物理
一方、学業はというと練習の疲労、眠気と大激戦を繰り広げていた。文系、理系の最終選択は3年からであったので、理系科目も理解しようと一生懸命授業を聞いた。絶対的に体力と時間が限られていたので授業中が勝負だと思っていたからだった。が、いまでも納得できないことがあった。
2年次で学ぶ数ⅡBで微分積分を学ぶことになるのだが、数ⅡBでそれを履修する前に、物理の授業で「もう君たちはそれを知っているよね」的に微分積分をちょこちょこっと説明して、するっと教科書を進めていったのだ。
以降、物理はまったく分からなくなった。もともと不器用であったことと、そんな進め方をする教師に対する憤りもあった。数ⅡB自体は大好きで、授業で微分積分を学んでからは十分理解もでき、それも大得意にはなったのだが、物理は絶対に許せない、学ばないぞという意地も張ってしまった。
物理のテストで零点をとった。零点は生まれて初めてであり、これで事実上、文系選択が決定となった。
いまとなって、他にやりようはなかったか、いっときの気持ちの憤りでそうなったことをどう思うか考えなくもない。しかし、このことがなくても文系選択していたことは間違いないし、そういう行動を取ったことを悔いてもいない。
同級生たちはそんな授業のプロセスとは無関係に予習復習でその事を乗り越えていたのだった。
ただ、まだ怒りは収まっていない。授業がすべてであった自分がないがしろにされたことよりも、「お前たちはどうせ俺の授業なんか聞いてないんだろ」風に物理教師が自虐的だったことが許せなかった。
自分に残っている青臭さは照れ臭くもあるが、燃える火種は消さずにいてもよいと思う。物理はいまでも大嫌いである。
監督の意図分からずモヤモヤ
練習はいよいよ密度を増していくのだが、いまだに意図を図りかねることがこのころ続いた。
一つ目。フリーバッティング中だ。
「カワキタ~!」と監督に呼ばれ、「この後、試合形式でのフリーバッティングをするからキャッチャーの準備をしろっ!」だった。
監督からこんな指示を受けることなど普通はない。普通は次の練習メニューは主将の安藤敏彦に伝えられ、安藤から、「試合形式バッティング~!」と言われ、みながそれぞれの準備に入るのが通例だった。
普通でない指示に川北は戸惑った。もしかしてキャッチャーへのコンバート? 経験なくはないけど。でも、どう考えても相澤の方がうまいのに…。モヤモヤしながらレガースとプロテクターを付け、マスクとキャッチャーミットを用意した。
すると監督が、「そうじゃあないよ。下級生に指示を出して試合形式バッティングの準備をしなさいなんだよ」。
なんだ。そうだったのか。でも何で…。
二つ目は、とある練習終わりに全員整列させられて校歌を全員で歌えとの監督指示があった。川北の記憶ではそんなことは後にも先にもこの時一度だけだった。1人が前に出てリードを取る必要がある。
「カワキタ、前に出てやれっ!」 だった。
こういう時に気後れしたり、ぐちゃぐちゃするのは大嫌いであったので、ある意味開き直って馬鹿になり、大声でリードを取った。
「ぐんま~けんり~つ、まえばし~こうとうがっこう、こうか~!イチっ、ニっ、サンっ、それ~!」
喉の限界を超えんばかりの大声で1番から4番まで歌い切った。みなも合わせて歌いきれていたと思う。
「よし、おおまわり!」としか監督は言わなかった。
いずれもたわいのない出来事だった。が、監督の隣でスコアラーを1年続けていて、大概の監督の指示の意図は推し量れると思っていたが、これらは訳が分からなかったので記憶に残っているのだろう。
自意識過剰で何らかの自分に対するメッセージなのではないかと勘繰り過ぎでもあったと思う。恐らく一つ目はたまたま傍にいたのだろうし、二つ目はリードをやらせやすいと単純に思ったのだろう。
もしかすると打席での開き直りのメンタルを気づかせたかったのかもしれないが。ただ当時、川北はマネージャーに転身しろと言うことなのか?とか、練習中に声を出していないと思われているのか?などと大いにモヤっとさせられていたのだった。
かわきた・しげき
1960(昭和35)年、神奈川県生まれ。3歳の時に父親の転勤により群馬県前橋市へ転居する。群馬大附属中-前橋高―慶応大。1978(昭和53)年、前橋高野球部主将として第50回選抜高校野球大会に出場、完全試合を達成する。リクルートに入社、就業部門ごとMBOで独立、ザイマックスとなる。同社取締役。長男は人気お笑いコンビ「真空ジェシカ」の川北茂澄さん。
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