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聞きたい

【昭和高校球児物語-前高 完全試合のキセキ-▶︎22】
高校1年冬-3

2023.03.17

【昭和高校球児物語-前高 完全試合のキセキ-▶︎22】
高校1年冬-3

たかが部活、されど部活

地味な冬練習はオンシーズンに比べれば時間も短く、この期間に普段遅れ気味の勉強をカバーアップしなければならないと思ってもいた。

しかし、同級生も勉強への取り組みのペースが定まるころらしく、授業での理解度は深まっても試験の順位は多少改善する程度にしかならなかった。やきもきしたが結果は受け止めるしかない。

特別な才能がない以上、野球も勉強も一定の「量」が必要であったし、その「量」をこなすためのキャパシティは限られていたのだ。

川北は「野球のせいで成績が落ちたら野球を辞めなさい」と入学前に母親に約束させられていた。その当時は普通のことであったと思う。

▲当時のマエタカには名物先生がいた。写真は英語の木村憲太郎先生

子供の部活動はあくまでも子供の責任で参画している認識だった。もちろんチームスポーツであり、伝統あるチームであったので、父兄会的な催しや応援、バックアップはあり、そこには父兄として普通に協力してもらってはいた。

しかし、この部活動に対する距離感というか、バランス感は子供の自立を図る上でも大事なものではなかろうか。

時代と共にそこが混然一体化して来ているように感じられ、近年の傾向は好ましいとは思えない。過度な親の関与は子供の自立を妨げ、学生生活の一部でしかない部活動での出来事がこの先の人生の全人格的運命と連携し過ぎてしまう。

親子家族一体となった取り組みが美談として扱われることが多いが、結果から紡がれた物語である場合がほとんどではないだろうか。

オンタイムのリアルとは間違いなく別物として区別する必要があるだろう。「たかが部活、されど部活」の距離感がまさにちょうど良いはずだと思わずにはいられない。

ユニホームは自分で洗う

川北の母親は生まれながらにして股関節を脱臼している障害持ちであり、自分に厳しく、子供にも厳しめだった。ユニホーム系の洗濯物が野球には大量にあるが、野球ものの洗濯は自分でやりなさいとも言われており、風呂場でブラシ洗いなどをしていた。もちろん母親がまったく洗ってくれなかったわけではなかったが。

そんなこともあって川北のユニホームの洗濯頻度はチームメイトに比べるとローテーションが長めであった。冬場は問題ないが夏にはある種、汗が籠って熟した匂いが強くまとわりついてもいた。

「かわきた~、臭っせ~よ~、あんまりそば来るなよ!」

「も~そばでプーン、ソバプンって言っちゃうぜ」

たまにそう言われながら、川北は匂う状態にも、そう言われることも、「おーごめんごめん。風下に寄るね~」と、まったく気にしていなかった。

▲懐かしいユニホーム。川北は自分で洗濯した

正直、いまでも匂いはあまり気にならない。実際毎日の練習にいつもいっぱい、いっぱいであり、いろんなことに気を回す余裕がなかったのだ。

さらに良い意味で鈍感でもあった。そのためこういったやり取りでは一切、悲壮感はなく、むしろ笑い話だったのだ。いまでもチームメイト間の思い出笑い話の一つとなっている。

成績の件も「落ちた、上がった」の基準を定めていなかったことと、野球部自体が少人数で比較的戦果を出し続けていたこともあって、「辞めなさい」とまで親に詰め寄られることはなかった。

でもその分、常に「この成績でよいのだろうか」と思っていた。成績=将来の可能性と正しく認識していたし、徐々にではあるが順位は下降していたからだった。

純愛映画に目を潤ませて

勉強を…と思いつつ、クリスマス前後の練習早上がり時に1年の茂木慎司、相澤雄司、佐久間秀人と前橋駅前の映画館で映画を見た。『カサンドラ・クロス』『ラストコンサート』の2本立て。

この年の夏についでの勢いで見た『スナッフ』とは違い、『カサンドラ・クロス』は話題のサスペンス大作で計画的に観に行った記憶である。

▲前橋駅前、けやき通りにあった映画館「文映」

『カサンドラ・クロス』よりは純愛映画だった『ラストコンサート』の内容が切なく、ショートカットヘアーの女優(パメラ・ピロレッジという名だと後で知った)がたまらなく可愛かった。

特にロマンチストの茂木が「可愛いよな~、いいよなあ~」を連発し、珍しく相澤が目を潤ませていたのが記憶に残っている。

確か茂木は部室内の自分のスペースの壁に映画ポスターを貼ってもいたように記憶する。やはりみな年頃ではあるし、それなりの色付きの思いを持ってはいたはずだが、思いだけであまり実践は伴っていた気配は感じなかった。

各自それなりに中学時代には周囲を沸かせていた存在ではあったらしかったが。坊主頭のダサ野暮君では…であった。

大晦日の冷気の中、その年最後の練習が終わり、グランド、用具小屋、部室を気持ち片づけて年納となった。

「よいお年を!」

佐久間の自宅前で彼と別れ、自転車で家へ向かう。正月三が日の休みがうれしく、笑顔が込み上げてくるのが自分でもわかった。

昭和51年はこうして幕を閉じた。この年はロッキード事件で田中角栄総理が逮捕され、戦後政治が大きく変わり始めた年でもあったのだが、川北には三日間の練習休暇の方が大事であった。

かわきた・しげき

1960(昭和35)年、神奈川県生まれ。3歳の時に父親の転勤により群馬県前橋市へ転居する。群馬大附属中-前橋高―慶応大。1978(昭和53)年、前橋高野球部主将として第50回選抜高校野球大会に出場、完全試合を達成する。リクルートに入社、就業部門ごとMBOで独立、ザイマックスとなる。同社取締役。長男は人気お笑いコンビ「真空ジェシカ」の川北茂澄さん。