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【昭和高校球児物語-前高 完全試合のキセキ-▶︎18】
高校1年秋-3

2023.03.12

【昭和高校球児物語-前高 完全試合のキセキ-▶︎18】
高校1年秋-3

厳しい野次を浴びせる相澤、堺

準決勝は前橋工業高校(マエコウ)である。この試合、田中不二夫監督が仕事の都合で采配を振るえず、内山武先生が監督代行を務めた。部員たちからすると若干の気楽さもあり、マエコウを野次り倒す展開となった。

前述したが当時のマエコウは野球有名校であり選手集めもしていた。部員数も常に100人前後いて、前橋市内の中学の有名選手はみなマエコウに行った。目の当たりにしたわけではないが、人数を絞るための過酷な練習が強いられているとの噂も絶えなかった。

当時、マエコウから早稲田大学でプレーされた高橋幸男監督が采配を振るっていた。2年前の甲子園ベスト4の実績も含めてチームとしての威圧感、監督の威圧感は半端ないものがあった。

マエタカのベンチは一塁側であったが、特にキャッチャー相澤雄司とサード堺晃彦の野次は激しく、また相手には効いていた。

▲3番ライト相澤。シャープな打棒と汚い野次が光った(センバツ出場40周年を記念して2018年3月に開かれた試合)

守備中には、「こいつら野球だけで脳味噌、蒸発してるから監督のサインのまんまだよ~」。

「ほらほら、バント失敗すると監督の目が光るよ~」

攻撃中には、「ピッチャー、フォアボール出すと替えられちゃうよ。帰ったら罰練習だね~」。

「お、エラー!あー交代だね~、二度と試合に出られないね~」

後に別な場所で聞いたことがあったが、マエコウは当時、相澤と堺の野次にはほとほと困っていたらしい。選手の頭に血が上ったり、不安になったりと野次を意識し過ぎていたらしいのだ。

実際、野次の後にマエコウの選手たちはチラチラと自軍ベンチの監督に視線を送ってもいたし、ベンチ内で監督と選手の間の距離が徐々に広くなっていっている気がした。この時の試合もマエタカの勝ちパターン。2対1で勝利となった。

マエコウ側の憤懣(ふんまん)やるかたなさは想像して余りある。人数でも体格でも体力でも、恐らく底力でも練習量でも劣る、ペラペラしゃべる小賢しいチビッ子チームに負けるのである。なんともはやであったろう。

逆にマエタカ側の痛快さは半端ないものだった。

なお、この試合のマエコウの先発投手は1年生左腕の古井戸浩通投手であった。ドロップカーブが鋭く、マエタカ打線はまったくといってよいほど打てなかった。

この先、マエコウも彼が投げる限り侮れないと認識させられたのだが、過酷な練習でどこか故障したのだろうか。その後、試合で彼を見ることはなかった。何ともやるせなく、ホッとしつつ、またがっかりもした。

▲華麗な守備と体形も変わらない堺

前高に来るはずだった阿久沢

こうして秋季大会は決勝にたどりついた。相手は桐生高校(キリタカもしくはキリュウ)である。

翌年度には宿敵として何度も対戦することになる相手だが、この時はその予感を感じさせる1年生主体の大型チームであった。

大型左腕、阿久沢毅投手は川北たちの年代の中学野球県大会優勝投手だった。彼の住んでいる大胡町はマエタカにもキリタカにも進学できる地域であり、聞くところによると阿久沢はマエタカ野球部の練習を見学に来て、矢嶋道夫先生にカツ丼を奢ってもらってもいたらしい。カツ丼も空しく彼はキリタカに行ってしまったが…。

この試合のキリタカの先発は翌年、全国的に有名になる左腕、木暮洋投手だった。当時はまだ阿久沢が有名で木暮は無名に近かった。

阿久沢は一塁を守っていたが、彼の第1打席の右中間の長打は打球速度、放物線の高さ、ともに度肝を抜かれるものだった。

▲阿久沢は相変わらずのパワーを見せつけた

双方前半で点を取り合い、中盤の攻防になった。今一つ調子の上がらない木暮投手に変えて投手、阿久沢が告げられた。その投球練習。真っ向からではなくスリークオーター気味で、明らかに肘か肩を痛めているように見えた。

「でた~!カツ丼食い逃げ!」

「そうだ、そうだ、食い逃げだ!」

田中監督も「肘が痛そうだ。肘痛い、肘痛いってみんなで言え!」。

マエタカベンチは大騒ぎである。そこにツカツカと主審が来られた。

「品位のない野次は慎んでください!」

高校野球決勝戦では前代未聞の注意ではなかったか。田中監督は「…みんな、変なことは言うんじゃないぞ!」。

ベンチ全員が「あなたが言えって言ったのに」と思いつつ笑顔で目線を交わしあった。こんなことでもまたベンチの一体感は高まるのだった。

秋季県大会優勝し「凱旋歌」

緊迫した攻防は試合終盤まで続いた。キリタカは一塁三塁のチャンスにダブルスチールを仕掛けてきた。緊迫した決勝戦の最終盤。キャッチャー、相澤雄司の二塁送球を見てスタートした三塁ランナーを、送球を途中でカットしたセカンド、中林毅からの本塁送球でタッチアウトに仕留めた。練習通り。痛快だった。みなが雄叫びをあげた。

「ナイスプレ~ッ!」

4対3、1点差で勝利した。準々決勝からの3試合すべてが1点差勝利である。やけに清々しかった。スタンドで応援団が優勝した時のみに唄う凱旋歌を叫んでいた。

「いざ我が友よ~♪ 手~をとりて、共に唄わん凱旋歌~♪」

こういうプレーができ、こういうゲームができれば優勝できるのだと改めて実感できたのだった。

この時、TV中継はなかったが地元局のラジオ中継はあった。当時のローカル局中継のほほえましい話がある。後にラジオ録音を聞いたのだが、キリタカ一塁三塁ダブルスチール時の中継は、「盗塁!あっ、あーっ、あーっ、あっ、あーアウトです。アウトです」と、まったく訳の分からないものだった。

鍛えられたスポーツアナウンサーであれば、「一塁ランナースタート、キャッチャーセカンド送球!それを見て三塁ランナースタート、セカンドが送球を途中でカットしてバックホーム!いい球だ、ランナー頭から突っ込む、タッチ、アウトです。間一髪アウトです!」となっただろう。この位でないとラジオでは緊迫したナイスプレーが伝わらない。

勝利監督インタビューでマエタカの田中監督の名前を「それでは勝利監督、関口監督に伺います」と、キリタカの監督の名前と間違えてしまい、田中監督が、「タナカですが」と、低音でゆっくりと、ムッとしながら答えた場面もあった。もちろん、これはその後、部員たちの物まねネタとして何度も再現されることとなった。

悔しかった定期戦の敗北

県大会と関東大会の間にタカタカ定期戦の一般の部があった。前年は敗れていたらしい。そしてこの時も負けた。連敗だった。川北が出場した駅伝は圧勝だったにもかかわらず。痛かったのは綱引きの全敗だった。

最終結果が両校生徒のそろうマエタカグランドで発表された際のタカタカ生の大歓声、マエタカ生の落胆の溜息。口惜しさがこみ上げるとはこの時のことだと言ってよい。敗戦の挨拶をするマエタカ定期戦実行委員長。タカタカ生の野次で挨拶が聞こえない。

「聞けや!山猿!」

一部で小競り合いも起きていた。

閉会式が終わりタカタカ生が嬉しそうに前橋駅に向かって引き揚げて行く。その時には我らがマエタカ野球部は踏み荒らされたグラウンドの整備を終えて練習を始めていた。

定期戦の敗戦は悔しかったし、駅伝競走を真剣に走って疲れてもいたが、自分たちにはやるべきことがあるとの自覚が間違いなくあった。

かわきた・しげき

1960(昭和35)年、神奈川県生まれ。3歳の時に父親の転勤により群馬県前橋市へ転居する。群馬大附属中-前橋高―慶応大。1978(昭和53)年、前橋高野球部主将として第50回選抜高校野球大会に出場、完全試合を達成する。リクルートに入社、就業部門ごとMBOで独立、ザイマックスとなる。同社取締役。長男は人気お笑いコンビ「真空ジェシカ」の川北茂澄さん。