interview
聞きたい
【昭和高校球児物語-前高 完全試合のキセキ▶︎5】
高校1年春-1
2023.02.24
まさに昭和なマエタカ数え歌
現在の前橋高校は前橋市北東寄りの下沖町に移転しているが、1976(昭和51)年当時は前橋駅の南側に2~3㌔行った文京町に位置していた。
水田、畑、民家、工場が混在する地域で、市立の天川小、前橋五中といった市内では比較的、児童、生徒数の多い学校群が周辺にあり、県内では珍しくない二子山古墳が近所にあった。
マエタカ数え歌という時代を感じさせる歌謡がある。その2番は「ふたつとせ、二子山からけむ(煙)がでて、今日もエンダ(煙草の隠語と遠くの田んぼ、遠田の掛詞)で日が暮れる、そいつぁ剛毅だね、そいつぁね~」とあった。
近所の二子山で隠れて煙草を吸ったことにちなんだものだろう。のどかさと喫煙への憧れが香り、何とも言えず懐かしくなる。大人への背伸び感覚であり、陰影漂う文化人への憧憬があるのが高校時代であるのは今もそれほど変わってはおるまい。
当時のマエタカは東西に長い長方形の敷地の東側道路の北寄りに正門があり、長方形の長辺に沿って北側から校舎が3列並んでいた。
北に最も古い2階建ての木造校舎、真ん中に校長室や職員室、保健室、図書室などのあるコンクリートモルタル塗り建物、南に3階建ての東西に1番長いコンクリートの校舎があった。
3列の校舎の西の端に体育館があり、さらにその西側にプールと各種部活動の部室であるブロック積み2階建ての長屋のような建物があった。
校庭はこれらの建物群の南側に広がり、放課後は硬式野球部、軟式野球部、ラグビー部、サッカー部、陸上部で共用して使っていた。
硬式野球部は学校敷地東南の端をホームベースとし、ライト線は3階建て校舎の1番東の端に向かって伸び、レフト線は校庭の南端ラインに平行に西に向かって伸びていた。
ライトが狭くレフトが広いスペースで、ライト側の校舎の1、2階の窓には打球の危険防止のために金網がかかっていた。
ホームベースに立ってライト方向から順番に左へ目線を移すと、まず正門横の高さ20㍍はあろうかというポプラの大木の先端が風にそよぐ姿がある。
続いて3階建ての校舎、センター後方に屋外トイレ、体育館、プールと続き、左中間にはラグビーのゴールポール、レフト後方は視界が開けて、うっすらとテニス部のコートが望まれた。
センターからレフトの方角のさらに後方には榛名山、浅間山、さらには妙義山への山並みの連なりがあった。校庭の南側はイチョウ並木と用水路によって道路と隔てられ、道路の南には水田が広がっていた。
グランドは関東ローム層の火山灰で白っぽく、見た目にもやせた土質で硬く乾いていた。風が強いと表面の柔らかい土層は吹き飛んでいってしまい、グランド整備時には硬い火山灰層をいつも削り取っている格好で、雑草もあまり生えず、内野から外野にかけて一面の灰白色であった。
授業中や休み時間の校庭と放課後練習中のグランドは同じものであるはずなのに、不思議とそうは思えなかった。水はけやうねり、削ると石の出てくるエリアなど感覚に染み付いたグランドと、整備することもなく楽しく使う校庭はねじれの位置にあり、今思い出しても「そうか、同じだったんだ…」と驚きの方が先に来るくらいに別の世界の別の施設の認識であった。
衝撃的だった応援団の洗礼
入学式が過ぎた数日間、学校内は騒がしい。
「よ!カーキタ何組?」
「シゲちゃん久しぶり~」
「カッパしゃん元気?」
前橋市内で1度転校し、さらに中学を受験編入した川北にはその時々で付いたあだ名で声が掛かった。シゲちゃんと言ってくるのは小学校3年まで過ごした総社町地区の前橋六中の出身者。カッパしゃん、キャッシーは小学校6年まで一緒だった東中の出身者。カーキタ、サル、ウマは群大附属中の出身者である。誰もが新しい環境の中で何がどうなっていくのか期待で輝いた顔をしていた。
「ガッシャーン!!」
大音響と共に教室の扉が叩きあけられた。新入生、1年生の教室が並ぶ木造校舎の建付けの悪いガラス戸が軋み、弾んだ。川北のいる1年5組のクラス全員が息を飲む中、いわゆるガクランに身を包み白いタスキをかけた2人組が教壇に立った。
「チャーッス!!」
身を絞るような大絶叫をして、2人組は手を後ろに組んで足を開き上半身を前に折り曲げた。
2、3秒の沈黙。
「お前らふざけてんじゃねえぞ!人が挨拶してんだよ!」
「チャーッス!!」
数人がか細い声で「チャス」とこたえる。
「聞こえねーよ!なめてんのかよ!」
教卓の上の黒板消しが弾け飛んだ。
「もう一度!チャーッス!」
「チャーッス!」
何が何やら分からないがクラスの全員が応じた。
「よーし。おめーら新入生にな、わざわざ先輩が出向いてきてやったんだよ!今から歌を教えてやっからすぐ覚えろよ!」
「いいか!!・・・返事!!」
「チャーッス!」
「よーし、まず校歌!!」
歌詞も音程も聞き分けられないが圧倒的な声量でガクラン上級生は叫び始めた。校歌、応援歌、凱旋歌の計3曲をワンフレーズずつ怒鳴り、新入生に怒鳴らせると、「よーし。じゃあ、明日の昼、体育館で仕上げの練習をするから、全員それまでに完全に覚えて来いよ!…返事!」
「チャーッス!」
やはり進学校=ひよわの図式は当たっているのだろう。完全にビビらされている。多少なりともプライドを持った人間が集まっているとはいえ、いつの間にか全員がきちんと前を向いて座り、背筋を伸ばし、返事を一生懸命叫んでいる。可愛いものである。
このガクラン上級生が応援団であったのが分かったのは翌日の昼の全体練習でであった。
「おめーらがお気楽にのほほんと遊んでる時にな、野球部は毎日練習してんだよ!毎日だぞ!土曜も日曜もねーんだ!だからな、試合には必ず応援に行って、精一杯応援するんだよ。いいな!」
「チャーッス!」
野球部員として川北はなんとも照れ臭く、面映ゆかった。
県内一の伝統校であり進学校であると自他ともに認める学校であるが、男子校特有のいい加減さと、このようなバンカラの香りも混在していた。それまで共学の環境にいた新入生にとって黒一色の教室の雰囲気は寂しいというより、慣れない異様さであったが、その違和感も徐々に跡形も無く消えて行った。
授業カット、女子高潜入
「マエタカは明治時代に第十七番利根川学校として設立された、県下最古の歴史を持つ…」
「イイゾー!!」
全校集会での校長の話には必ず掛け声が掛かり、拍手と笑いと足踏みが交錯する。ブーイングではない。話す側も学生の合いの手との間合いを図りながら、逆に拍手を要求するような間を取って話を進めるのである。コンサートでの掛け合いのようであった。
「授業が自習になる時があるが、そんな時、6時限の授業の先生と交渉して6時限の授業を自習時間に持ってこられれば、5時限終了で帰ってもいいぞ。これをマエタカ用語でカットという。まあカットにできるかどうかは週番の腕次第だ。あとはお前らの責任で好きにやってくれ」。担任の先生の入学式後のクラスでの挨拶の一部だ。
「少し前にマエジョ(=前橋女子高校)の授業に女装して侵入した奴がいた。こいつがすげえ奴で、紛れ込む相手のクラスの女の子たちと作戦を組んでいったらしい。制服も調達して行ったそうだ。午前中はばれなかったらしいが、やっぱりばれちまってマエジョで散々絞られたらしいんだな。翌日のうちの職員会議で報告があってアッハッハで終わったら、すぐにマエジョからすんげえ抗議がきて慌てちまったよ」。授業中の先生の雑談。
「それでは授業を」
「先生!昨日、ジャイアンツ負けちまったじゃん」
「ん~よし、今日はジャイアンツの課題を語りましょうかねえ。そのかわり、今度のテスト範囲は255㌻までだから各自でしっかり読んでおくように。やる時にはやるんだよ~。やっぱり男は熱く燃えなけりゃあ!」
「やったー!」。ある日の授業。
Gパン、サンダル、ボンタン
中学までの義務教育期間が、どちらかというと規則・校則に縛られてきていたということなのだろう。学生生活は自由な解放感に満ちていた。
新入生こそ学生服姿ばかりだったが、上級生は長髪にベルボトムGパン、学帽にサンダル姿が多く、何でも校則でそれは認められているとのことだった。中には高校入学から一度も髪を切っていないという先輩もいた。
お洒落とは程遠く、野暮ったくセンスの欠片もないと言えるが、今思えばあれがリベラルの気風とでも言うものだったのだろう。髭面で、銀縁眼鏡を掛けている生徒が多く、なるほど進学校でもあった。
一方、当時の高校野球部員と言えば丸坊主頭に平たくつぶした学帽、タックの入った若干のボンタン、スポーツバックに皮のローファーといったものが強豪校や威圧的な高校の標準であった。
我らがマエタカ野球部員はスポーツ刈りの頭に普通の学帽、普通の学生服にスポーツシューズが多かった。どちらかというと「いかにも」スタイルを嫌っており、自分は野球部です的なのはむしろ格好悪い認識だったのだ。
スポーツ刈りだと多少ヘアスタイルめいた要素がないわけでもなく、学帽を被るのを嫌がる部員もいたが、試合で出かける際の見え方の事もあり、制服&学帽は厳しく躾けられていた。
ちなみに、前橋市内でも凄みの有る中学だった前橋三中出身の茂木慎司、前橋四中出身の相澤雄司は若干のボンタンに皮のローファーを履いていた。
かわきた・しげき
1960(昭和35)年、神奈川県生まれ。3歳の時に父親の転勤により群馬県前橋市へ転居する。群馬大附属中-前橋高―慶応大。1978(昭和53)年、前橋高野球部主将として第50回選抜高校野球大会に出場、完全試合を達成する。リクルートに入社、就業部門ごとMBOで独立、ザイマックスとなる。同社取締役。長男は人気お笑いコンビ「真空ジェシカ」の川北茂澄さん。