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【鈴木貫太郎の群馬学的考察▶3】
「敵艦見ユ」の丸橋彦三郎

2024.11.20

【鈴木貫太郎の群馬学的考察▶3】
「敵艦見ユ」の丸橋彦三郎

 今年の8月31日の朝、配達された上毛新聞を開いて、「日露戦争で敵艦発見、孫文も乗船/「信濃丸」写真入手」という見出しを見て、眠気が覚めるほど興奮したが、それに続く次の記事を読んで、がっかりした。

「信濃丸」写真入手の記事

 「日露戦争(1904~05年)における日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を最初に見つけ、一報を伝えたことで知られる『信濃丸』が太平洋戦争後、連合国軍総司令部(GHQ)管理下となった際の写真を、みどり市の私営施設『街かど歴史資料室』が入手した。中華民国を建国した孫文が日本に亡命する際に乗船したほか、『蟹工船』や戦後の引き揚げ船として用いられるなど、激動の時代を駆け抜けた同船。赤石幸夫室長は『これほどの歴史的な場面に立ち会った信濃丸の生涯を多くの人に知ってほしい』と話している。
 信濃丸は日本郵船が英国で1900年に建造、米・シアトル航路などで活躍した。日露戦争では海軍の仮装巡洋艦として対馬海峡の哨戒などに当たり、日本海海戦では『敵艦見ゆ』の一報を打った。徴用解除後に神戸―基隆間航路を担い、13年には『辛亥革命』を起こした後の孫文が同船で日本の2度目の亡命をしている。
 その後は、厳しい労働環境で知られる蟹工船として改装されたり、太平洋戦争では輸送船としても使われたりした。漫画家、水木しげるさんは著書の中でパラオーラバウル間での悲惨な乗船体験を記している。戦後は引き揚げ船となり、作家、大岡昇平さんは同船で復員するなど歴史のさまざまな場面に立ち会ってきた。

 GHQは戦後、日本商船管理局(SCAJAP)を設立、100総㌧以上の日本商船に管理番号を付けた。赤石室長が入手した写真からは「SO28」と読み取ることができる。同船と関わりの深い日本郵船歴史博物館(横浜市)の明野進館長代理は「写真は信濃丸で間違いない」と書面で回答した。
『信濃丸の知られざる生涯』(2018年、海文堂刊)の著者、宇佐美昇三さんは『信濃丸は朝鮮戦争時に元山、興南で物資揚陸にも関わり、1951年に売却解体された』とその最後を語る。」(以上、上毛新聞記事より)
 なぜ、この記事に落胆したかというと、上州人・丸橋彦三郎のことが書かれていなかったからである。

 

▲丸橋彦三郎

「天気晴朗ナレドモ浪高シ」

 信濃丸は明治38年(1905)3月海軍が徴用し、呉鎮守府所管の仮装巡洋艦になった。艦長は成川揆(はかる)大佐、副長が丸橋彦三郎少佐であった。日露戦争の日本海海戦では、対馬海峡で哨戒中、ロシアのバルチック艦隊を発見した。
 よく知られているように、信濃丸から「敵艦見ユ」の暗号が発せられ、第3艦隊の旗艦「厳島」が受信し、同じ電文を旗艦「三笠」へ転電した。司令長官名で大本営に打電する文案「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ、連合艦隊ハ直ニ出動、之ヲ撃滅セントス」としていたものを、 秋山真之中佐が「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」を加えた。丸橋彦三郎も「敵艦見ユ」の軍人と称された一人であった。

▲秋山真之

 丸橋は慶応3年(1867)2月6日、いまの桐生市境野町に生れた。明治7年1月に祥雲寺に開校した境野学校に入学。同16年2月に群馬県中学校に進んだが、翌年11月には退学し近藤真琴が経営する攻玉社に入り、同18年11月に海軍兵学校に進んだ。同校を同22年に卒業し、日清戦争で戦功をあげ、同33年に海軍少佐となり、同36年には山階宮菊麿王付きの武官となった。

 この際、こんなエピソードがあった。「山階宮の御附武官」を仰せ付けられる前夜、丸橋の妹が、丸橋少佐が龍の背中に乗り、空を飛んでゆうゆうと凱旋する夢を見た。翌朝、母に話すと、母は「龍の夢は良い夢だから、彦三郎に何か良いことがあるだろう」と語った。すると、その日の昼過ぎに吉報がもたらされたという。
 日露戦争では信濃丸副長として活躍、戦功により金鵄勲章を賜った。大正元年海軍大佐、同4年周防艦長、同7年に海軍少将となり、勲二等瑞宝章を賜った。退役すると帰村し、昭和2年4月境野村学務委員に選ばれたが、翌3年3月5日に病没した。享年62。菩提寺である祥雲寺の丸橋家の墓所に葬られたが、その後、大本山総持寺(鶴見)に改葬された。

 丸橋は海軍兵学校在学中、広瀬武夫と親しく柔道仲間であった。丸橋と広瀬は15期、秋山真之は17期生であった。広瀬は旅順閉塞戦で戦死。軍神広瀬中佐として、『文部省唱歌』「広瀬中佐」として歌われた。

▲広瀬武夫

海軍「関東クラブ」

 海軍兵学校14期の鈴木貫太郎は『自伝』の中で、次のように語っている。
「その頃、中学校の同窓や他の人たちも海軍に入ることは賛成しない。陸軍は長州、海軍は薩摩といった有様で、立身出世の余地がない、第一、入れやしないというのである。私は、そんなことはあるものか、いやしくも天下に公告して募集する以上、体力が強く学問ができれば入れぬということはなかろうと断然入る決心を動かさなかった。実際その当時は、関東地方の人たちはそんなふうに考えていた時代であった」。
 貫太郎が入学してみると生徒は120人、「関東もの」は貫太郎だけであった。翌年から群馬・茨城・埼玉県などから5人が入り、日曜日は貫太郎の下宿で一緒に過ごすようになり、3年目には10数人となって、「関東クラブ」と周囲から名づけられた。
 丸橋が群馬県中学校に入学したのは明治16年2月であった。すでに在校していた鈴木貫太郎と「大の仲良し」になった。貫太郎が海軍兵学校を目指し、同校を中退すると、丸橋も翌年に中退し、貫太郎を追って攻玉社から海軍兵学校へ入った。
 貫太郎は『自伝』でその名を記していないが、「薩の海軍」と言われて薩摩閥が幅を利かせいていた海軍兵学校に、貫太郎入学の翌年に入って来た群馬・茨城・埼玉県などの5人のうちの1人が丸橋であった。
 鈴木貫太郎をトップとする海軍の関東勢の先駆者の1人が丸橋であった。最初に紹介した上毛新聞の記事で丸橋の存在が忘れられてしまったのは、誠に残念なことである。 

記念碑の揮毫 渾身の大書

 昭和11年(1936)9月25日に勅令によって「帝国在郷軍人会令」が発布されると、桐生市在郷軍人境野分会では、11月15日に境野小学校で勅令発布記念式典を挙行すると共に、丸橋彦三郎頌徳碑を建立し除幕式を行った。
 頌徳碑の正面の文字は、次のように鈴木貫太郎が揮毫した。「海軍少将 従四位/勲二等/功三級 丸橋彦三郎之碑  海軍大将鈴木貫太郎書」。
 裏面には竹馬の友であった牧島榮四郎の撰文が銅板に刻まれている。頌徳碑は境野小学校から移築され、現在は祥雲寺の本堂前にある。記念碑の揮毫は、二・二六事件で瀕死の重傷から蘇った鈴木の渾身の大書であった。

▲丸橋彦三郎の碑

 丸橋彦三郎は酒もタバコも大嫌いで、部下にはとても穏やかな上官で、「仏丸橋(ほとけまるはし)」と呼ばれた。部下から「鬼貫」と呼ばれた鈴木貫太郎とは対照的であった。
 丸橋彦三郎と鈴木貫太郎を比べると生年は慶応3年で同じで、生まれ月は丸橋が2月、鈴木が12月と、丸橋が早かった。しかし、群馬県中学校、海軍兵学校の入学は鈴木が早かった。丸橋が亡くなった翌年に鈴木は昭和天皇の侍従長になった。海軍の傍流であった関東クラブの二人であったが、鈴木の幸運と鈴木の60代から80代の晩年の人生の重さを見て取ることができる。鈴木は大器晩成の人であった。
 群馬県中学校の後身である県立前橋高等学校同窓会では「同窓会名簿」を発行している。鈴木貫太郎は明治19年卒業(第5回)の縁故者、弟の孝雄は同20年卒業の縁故者として扱われている。しかし、丸橋は巻末で「縁故者(乙)所属年次不明の者692名」の一人としその名前が出てくる。

 

一般社団法人群馬地域学研究所代表理事
手島 仁

鈴木貫太郎(すずき・かんたろう)

 1868年、和泉国伏尾(現大阪府堺市)に関宿藩(千葉県野田市関宿町)の藩士の子として生まれる。千葉県から前橋に移り、厩橋学校(現前橋市立桃井小学校)、群馬県中学校(現群馬県立前橋高等学校)で学んだ。海軍兵学校に進み、日清、日露戦争に従軍。連合艦隊司令長官などを歴任後、侍従長として昭和天皇に仕えた。1936年の二・二六事件で銃撃されたが一命を取り留める。1945年4月、首相に就任、同年8月、ポツダム宣言を受諾した。1948年、千葉県関宿町(現野田市)の自宅で死去する。享年81。