interview
聞きたい
【聞きたい 小林香菜選手▶3】
市民ランナー 覚悟の転身
2025.05.07

中学で全国トップクラスの長距離ランナーとなった小林香菜選手。陸上の強豪高校から勧誘されたが、選んだのは早稲田大の付属高校だった。そのまま、早稲田大に進学する。専門的な指導を受けることができなくなった。
早大時代は陸上サークル
――高校でも陸上部に入りましたね。
陸上に特に力を入れている学校ではありませんでしたが、1年時はまずまず練習を積めました。
2年に上がるころ、「力が付いた。いける」と思った矢先、自分の不注意で2度、大けがをしてしまい、追い込んだ練習ができなくなりました。
ようやく走れるようになったのは3年になってからでした。
――成績はどうでしたか。
3000㍍のタイムは3年になって9分51秒。悪い時は11分もかかりました。中学時代のベスト、9分36秒を更新することができず、全国大会どころか関東大会にも出ることができませんでした。
――大学でも競技を続けます。
陸上部に入ることも考えましたが、早稲田の女子の長距離部門は男子と違って1人か2人だけ。中学の時に楽しい思いをした駅伝をやりたかったのにできないと分かってやめました。
男子には中学の時に大会でよく顔を合わせた北村光君がいました。箱根駅伝は実家でテレビを見て応援していました。

▲市民ランナーとして活躍した小林選手=秋田内陸100㌔チャレンジマラソン
――サークルに入りますね。
ランニングサークルの「早稲田ホノルルマラソン完走会」に入り、皇居周辺や代々木公園を走りました。
とても楽しかった。でも、だんだんと物足りなさを感じるようになりました。1人だけ熱心な先輩がいて、誘ってもらって自主練習をしました。
初マラソンは大学2年の富士山マラソンです。チョコを食べながら楽しく走りました。
翌年は2時間30分台で優勝し、大阪国際女子マラソンへの出場権を獲得できました。
――市民ランナーとして頭角を現します。
大阪ではハーフまで第2集団にいて実業団のトップ選手と走ることができました。まあ、ハーフ以降はふらふらして意識もないままゴールしましたが。
――大阪の走りが人生の大きな転機となりました。
高校、大学で陸上に専念できなかった心残りがあり、今度こそ本気でやろうと覚悟を決めました。
「公務員になった方がいい」と反対した親を説得しました。就活もしていましたが、すっぱりやめました。

▲進路について語る小林選手
小林香菜(こばやし・かな)2001年、前橋市生まれ。前橋三中-早稲田大本庄高等学院-早稲田大法学部卒。大学では陸上サークルに所属、市民ランナーとして活躍する。2024年、大塚製薬陸上競技部に入部。防府読売マラソンで優勝する。




