interview
聞きたい
【昭和高校球児物語-前高 完全試合のキセキ-▶︎13】
高校1年夏新チーム-2
2023.03.06
スイカ頭 同期が1人また去る
スイカ頭という言葉を知ったのはマエタカ野球部に入ってからだった。真夏に太陽を浴びて活動をすると頭がズキズキしてしまいがちで、頭をスイカのように水につけて冷やしておかないといけない症状のことであった。正直、誰しもが程度の差こそあれ真夏頭痛は発症しているようにも思っていた。
1年生の柳沢仁がスイカ頭であった。練習中に発症し、木陰で休むことがたびたび起こるようになっていた。
川北は自宅が同じ方向だったことと、少年野球時代に柳沢が控え投手、川北が控え捕手でバッテリーを組んでいた縁もあり、やはり同じ方向の同級生、佐久間秀人と3人で自転車帰宅をしていた。
佐久間と別れてからわずかの間ではあったが柳沢の症状の話を聞くことがあった。
「どうなんだろ。やっていけるかな?」と話す柳沢。
「少しずつで良いのじゃあないの。昨日より今日は長くやれたじゃん」
正直、川北は他人事モードであった。退部してラグビー部に入った関口佳克の時と同様、やはり自らがいっぱい、いっぱいで自分自身がやっていけるかさえも怪しいのが本音なのであった。
また、スイカ頭は自分にも近い症状はあり、木陰で休む柳沢が正直腹立たしくもあった。かといって自らは休憩を申し出る勇気もなかったし、リタイヤ=負け、となる見え方は思い込みではあるがなおのこと嫌であった。
さらに、他人事として接する方が柳沢のプライドを守れるのではないかとも思っていた。川北がどう返そうがやるのは当人、決めるのも当人であるのだから…。
数日後、柳沢は退部した。マエタカ野球部員は13人になった。
何かもっと良い対応が別にあっただろうかと思い返すことがある。が、その答えは分からない。柳沢にしてもスイカ頭であるプレーヤーとしての不甲斐なさと、練習負荷をシェアしきれないメンバーシップ上の不甲斐なさからの決断だったのではなかろうか。この件の棘は心に刺さったまま、である。
寝たくないのについ爆睡
夏休み練習は午後1時から最も熱い時間帯に行われ、終了は夕方6時前後だった。終了に向かうクールダウンランニングを示す「おおまわり!」の声が掛かった瞬間が安堵感の絶頂だった。
クールダウンの体操、練習総括、グラウンドへの礼、整備、部室に引き上げて着替えと続き、そして自宅へと帰路につく。ここまではまだ安堵感が続いた。
自宅で夕食、入浴、就寝となるのだが、夏休み練習のころは寝るのが嫌であった。体はとめどなく疲れており、夕食の途中から瞼はほぼくっついているのだったが、寝てしまうとあっという間に次の日になってしまう。
翌日の練習までの束の間の時間をもっと大事にしておきたかったのだ。そんな思いを抱えてはいたが眠気にはいつも惨敗していた。
翌朝、目を覚ます。既に日は昇っており、体を絞り上げるような蝉の鳴き声が聞こえる。途端に練習開始までのカウントダウンが体内で始まってしまう。
電話で177をかけ、天気予報を聞く。何度聞いても快晴である。食事をし、若干の勉強のふりをするが、カウントダウン音が徐々に大きくなってくる。
早めに昼食もとり、まだまだ余裕があるのにジリジリ照り付ける太陽のもと学校へ自転車で向かうのだった。
他の部員も同じ心境だったのだと思う。みな早くから部室に来てしまっていた。ゆっくりと着替え、部室でうだうだして、練習開始直前にグランドに向かうのだ。
練習開始を受け入れる気持ちを作り上げること、諦めと覚悟が必要だったのである。それと自分だけではなく仲間もいるという確認も。
ただ、2年生の中林毅だけは違っていた。早くに部室に来ることは一緒であったが、手早く着替え、早くからグラウンドに出て整備していた。並外れた精神力でなければ出来ないことであり、みな尊敬というよりは驚嘆していた。
軽井沢へ全員で1泊旅行
8月になりますます暑さに過酷さが加わってきたころ、チーム全員、監督、先生方で軽井沢に旅行に行った。野球の練習は無しで1泊寝食を共にする企画だった。
過酷練習の中休みとチーム全体のコミュニケーション強化を狙ったものだったのだろう。当時から軽井沢は高級避暑地で空気がひんやりとしており爽やかであったとの記憶がある。
寝るのは大部屋で全員一緒であった。監督も先生方も。大人数ゆえに少ししゃべっているだけでも隣の客室には響いたようだ。扉がトントンとたたかれて、「すみません。少し静かにしてもらえませんか」ときた。
「はいよーっ!」
戸部正行先生が答えた。特に何ということのないやり取りだが、野球部員たちの間では永年の笑いネタとなった。戸部先生は顧問の中では比較的年若で一歩下がっている優しい先生であったのだ。
旅行先で見も知らぬ人からクレームを受ければ、まずは平身低頭するような方なのである。それが「はいよーっ!」。こちらの大人数が戸部先生を開放的かつ強気にさせたのだろう。この手の「状況とキャラクター反応とのギャップ」がマエタカ野球部員の大好物であった。(はいよーっ!…だって。ぷぷぷ、である)。
軽井沢では進学校らしい場面もあった。全員で散歩に出て、谷にかかる大きな橋を渡った。目視でも下の川面までは100㍍近くあったように感じた。
その時に中林と安藤敏彦が道端の小石を拾い上げ、「この小石が大体500㌘」。
「うんうん、そしたらそれを落として何秒で川面につくかで、この高さが…」
物理の公式を持ち出して高さを測定しようとしたのである。中林も安藤も成績ランクは上位であった。あまりの自然な会話が誇らしくもあり、何とも言えない畏敬の気持ちも涌いた。ここでそれ出しますか…の茶化す気持ちもちょっぴり。
かわきた・しげき
1960(昭和35)年、神奈川県生まれ。3歳の時に父親の転勤により群馬県前橋市へ転居する。群馬大附属中-前橋高―慶応大。1978(昭和53)年、前橋高野球部主将として第50回選抜高校野球大会に出場、完全試合を達成する。リクルートに入社、就業部門ごとMBOで独立、ザイマックスとなる。同社取締役。長男は人気お笑いコンビ「真空ジェシカ」の川北茂澄さん。
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