interview
聞きたい
【昭和高校球児物語-前高 完全試合のキセキ-▶︎6】
高校1年春-2
2023.02.25
遅れて入部した松本と堺
新年度が始まりひと段落しかけた4月のある日、新たな新入生部員が入部してきた。
前橋高校の学区は前橋市にとどまらず、主に県央の東及び南方向に伊勢崎市、新里村、粕川村、赤堀村、境町(いずれも当時)などが含まれていた。
前橋市内以外は前橋駅や中央前橋駅からの電車通学とならざるをえず、各駅から学校への足の便を含めて登下校の行程はそれなりに負担のかかるものだった。そんなこともあって練習で下校の遅くなる野球部員には、前橋市外から通学している部員は稀であった。
そんな中、伊勢崎殖蓮中の堺晃彦、伊勢崎二中の松本稔が来たのである。その日は制服姿で先生に付き添われてグランドに来た。2人とも上背はあまりないが、がっしりとした体躯をしていた。人柄の良さそうな穏やかな目をしているのが第一印象であった。
新入部員同士の挨拶の際に川北は「(通学がきついと思うけど)辞めんなよな」と言った。
春休みから約1カ月間ではあったが入部して練習及び試合を含めた部活動の時間縛りの実感があったゆえに、彼らの通学の負担が相当なものではないかと危惧したのだった。
その後、彼らはその負荷を背負って野球部生活を全うし、チームの中核選手として活躍することとなった。いやむしろ、のちの戦績は彼らなしにはなしえないものであった。彼らの後輩もその後、野球部に入部してくることになるのである。
進学校の新入生としては新学期の開始時は大事な勉強のスタートダッシュ時期のはずではあったが、野球部員は毎日の練習で疲労を半端なく累積させていた。いつも倦怠感と疲労感をまとっており、「だり~んなあ~」が部員同士のあいさつ代わりだった。
体育や武道の授業でも放課後の事を考えて、真面目には取り組んだが必死にやるようなことはなかった。
練習前は率直に言って気が重くなりがちだったが、練習が始まり、汗ばんでくると倦怠感や疲労感が薄らいでいき、体が「動く」のが不思議であった。さらに声出しによってアドレナリンが出るのだろうか、何も考えずに反応しているだけの時が最もいい動きができているようにも感じていた。
とはいえ、練習の負荷に対して前向きなコメントを部員同士で言い合うことはほぼなかった。みなが望んで入部したはずではあったが練習は疲れる辛いものとしておくことが仲間認識の大原則であった。
ありがちなことだが監督や先生方、練習に来られるOBの方々の癖や口調を冷やかしモードでネタにすることで一体感が養われていたと言ってよいだろう。世情的にも当時は前向きな熱血さはカッコ悪い側に寄せられていたし、必死さは秘しておくべきものでもあった。
実際は練習を忌避するコメントを言い合いながら、いざ練習が始まるとそれぞれの負けん気がぶつかり合っていた。そこは勉強面でも各中学では優秀で、努力を結果に結び付けてきた実績を持つ、それなりのプライドを持った人間の集まりだったからだろうか。
自意識過剰と言われてしまうかもしれないが、進学校だからこそ負けん気やひがみ根性が人一倍強いメンバーが集まったといってよかったのだろう。このことは真夏の練習や真冬の練習で証明されることとなるが、それは後段で改めてとさせていただく。
ロックバンドやろうぜ
この頃、川北にある誘いがあった。
「本格的なロックバンドやろうと思うのだけど、ドラムやってみない?」
群大附属中出身の洋楽好き友人からの誘いだった。実は結構迷った。当時、ブリティッシュプログレッシブロックやハードロックにはまっていた。田舎の中高生にありがちだったと思うが、小難しく高尚に思えることへの憧れが強かったのだ。職人芸的なインストロメンタルに対するマニアックな興味にも浸っていた。
お互いの音楽の好みなど勝手知ったるこの友人たちのコンセプトはまさにどんぴしゃりであったのだ。ベースやドラムに憧れていた川北の指向にも沿ったオファーでもあった。
「野球があるからなあ…。ドラムを新しく勉強する余力も時間もないよ。オルガンなら家にもあるし…。でも、なあ…」
「キーボード専任者をおくイメージはないんだよね。そっかあ…」
もしこの時、を考えることはその後もしばしばあった。やはり魅力的なオファーだったのだ。
翌年の文化祭でこのバンドがフォーカスの「悪魔の呪文」をインストロメンタル中心に演奏するのを見た。完璧に近く、心が震えた。そこでドラムを叩いていたのは川北も良く知る友人、中学時代の野球部チームメイトだったのだが、自分が叩いている姿を思わずにはいられなかった。
その後、予備校時代、大学生時代、社会人時代とつまみ食い的にロックバンドを続け、ベースギターで遊ぶこととなる。
ちなみに最初に川北を誘った友人は高校卒業後に接点はなくなったが、クラシックギターの全国コンクールで表彰されるなどしていた。今だにプロのミュージシャンとして活動を続けているらしい。人生の道筋の枝分かれは面白い。
早弁してパン屋と焼きそば屋へ
練習&練習の日々は育ち盛りの高校生には疲労と同時に爆発的な空腹をもたらす。川北はいつもお腹を空かせていた。
中学時代であれば考えられなかったが、1時限と2時限の間と、2時限と3時限の間の休み時間で家から持ってきた弁当は平らげ、3時限と4時限の間で学校前のパン屋で買ったパンを食べ、昼休みは学校前の焼きそば屋「ツカダ」で大盛りに青のりと胡椒を山盛りに掛けて食べるのが日課であった。
高校生は買い食いも自由なのが青天井にうれしかった。昼休みに大盛り焼そばをお替りしようとして、ツカダのおばちゃんに「やめときなさい。食べ過ぎはよくないよ」と言われたこともあった。
休み時間や自習時間に校外と校内を頻繁に行き来し、たい焼きやホットドックを歩きながら食べていた。最高においしかった。中学時代、下校途中に現在は有名店となったホワイト餃子の食べ競争をして、担任の先生に物凄い剣幕でどやされたことと比べると夢の世界にいるようであった。
穏やかで厳しかった矢嶋先生
何でもありの野放図さだったのかというと、野球部員たちの風紀に厳しい方、顧問最年長の矢嶋道夫先生がおられた。化学の先生であり、穏やかな風貌、落ち着いた低音のマイルドな声で、笑っていない眼鏡の奥の目でじっと見つめることでこちらからの目線外しを許さなかった。
前述した学帽をはじめとした身だしなみにもうるさかったし、体育の授業中にチンタラ走っていると、見えるところまで出てきて「俺が見ているぞ」との圧を送ってきた。
練習後の下校途中、清涼飲料水の自動販売機前でがぶ飲みしていると「炭酸飲料は飲んでないな」と注意されたりもした。
ある時、バッティング練習中に外野を守っていた1年生が棒立ちをしていた。矢嶋先生はそれを見て、内外野中間のファウルグランドあたりからその1年生に「俺が見ているのだから、ちゃんと守備姿勢で構えなさい」と指導した。
そこへ運悪く打撃練習のライナー打球が頭に当たってしまい大騒ぎにもなった。その時はことなきを得たが、それほど一人一人に対する基本的な事柄の指導も熱心に行われていたのである。
かわきた・しげき
1960(昭和35)年、神奈川県生まれ。3歳の時に父親の転勤により群馬県前橋市へ転居する。群馬大附属中-前橋高―慶応大。1978(昭和53)年、前橋高野球部主将として第50回選抜高校野球大会に出場、完全試合を達成する。リクルートに入社、就業部門ごとMBOで独立、ザイマックスとなる。同社取締役。長男は人気お笑いコンビ「真空ジェシカ」の川北茂澄さん。
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