interview
聞きたい
【昭和高校球児物語-前高 完全試合のキセキ-▶70】
高校3年夏-2
2023.06.08
終わりない練習 田中監督の檄
このころの練習や練習試合は本章冒頭にも記した「夏に向けて見えてこない打開策に対する閉そく感」を何とか突破しようとしたものだった。
マエタカでの他校との練習試合後、終わりの見えない練習をしたことがあった。
充分にシートノックを行ってから、部員全員がグラウンドに背をつけて寝ころび、目を閉じる。笛の音とともに跳ね起きて「それっ!」と大声で叫びながら空に向かって思い切りジャンプし、着地してまた寝転ぶメニュー。ユニフォーム背中と帽子の後頭部の汗に土がベッタリと付く。これを何回飛んだかまったく分からなくなるまで繰り返した。
さらに、通常なら本数を指定されるメニューである塁間ダッシュを指定なしに指示された。
いずれもやっているうちに部員間では「あと何回だろう? 何本だろう?」的な目線の交わしあいが始まり、明らかに「カワキタ、本数確認しろよ」と目で訴えてくる者もいた。
しかし、この時、田中不二夫監督はみなの様子を見ながら腕を組み、微動だにしなかった。そして何本やったか分からなくなり、みながそのメニューのことしか考えられなくなった頃合いで「ラスト10本」との指示がでた。
練習後の円陣、珍しく監督が弁舌をふるった。部員は全員が、グランドの土と汗の塩で全身ドロドロになっていた。
「マエタカは頭の野球だとかなんだとか言われているが、甲子園での惨敗、キリュウに負けたことなど、やっぱり体の野球ができてないんだ」
「練習で自分を追い込んで、あるいは追い込まれると、あー辛いな、疲れるな、と誰でも思うだろう。でも大事なのはそこからなんだ。そこをやり切って、乗り越えないと次は見えてこないんだ」
「今までだってそうだっただろう? 自分に勝たないと見えてこないんだよ。日本全国、数えきれない野球部員たちが、みんなが同じように頑張っている。全員がだよ。彼らに勝つには、彼らより一歩抜きんでるには、彼らに勝つ資格を持つには、まず自分に勝たなけりゃ。あー、俺はもう駄目だ…と思う時、そこだよ、そこ!」
話しながら田中監督の口調は熱を帯び、話の切れ間、切れ間に「はいっ!」と返事をする部員の声も少しずつ大きくなっていった。みなが必死に何かをつかもうともがいていたのだ。
宿命のライバル タカタカ
6月3日、タカタカ(=高崎高校)の何かの記念行事の一環でタカタカに行って試合を行った。
先方の記念行事のわりにタカタカにまったく戦意と覇気が感じられず、試合展開も一方的で拍子抜けであった。後にこの時、タカタカはチームとしての状態が悪かったと聞いた。
長年の宿敵のそんな状態に寂しさもあったが、タカタカはその後、見事に盛り返し、3年後に甲子園初出場を果たす。
山際淳司さんの短編『スローカーブを、もう一球』で話題にもなった。この作品中の川端俊介投手の姿に松本の姿を重ねた人は多かったはずだ。ただし、川端投手の高校入学はこの翌年であり、高校野球期間に松本と川端投手は重なってはいない。
茂木に居残り練習命じる
6月10日の練習試合は沼田高校だった。県内では北毛(ホクモウ)と呼ばれる地域。県北部の山あいに利根川が流れ、形成された壮大な河岸段丘が全国的に有名な地域だ。そこに新たに公共野球場が造られてのお披露目であったろうか。
この試合に向かう際に田中監督は、「茂木(慎司)と1年生は学校に残って練習。茂木、頼んだぞ」と言った。
茂木の目が一瞬泳いだが、間髪入れずに、「分かりましたっ!」と答えた。
この指示の意味は誰も尋ねず、誰も語らなかった。打撃成長の著しい細野雅之をレフトに使い、石井彰をセンターに回す場面が増えてはいた。その事実を刻み込ませて細野に自覚を促すためだったのか、茂木に最後の奮起を促すためだったのか。
田中監督がお亡くなりになってしまったので、もはや知るすべはない。ただ、茂木はその後も堂々とし、練習にはそれまで以上に真摯だった。この試合は敗れたが、全員がピリッとしたことは間違いなかった。
翌6月11日、熊谷商業高校に遠征に行った。昭和40年代にはよく甲子園にも出場しており、伝統ある強豪校であった。
川北たちが1年生の春にも遠征に行っていた。その時には前橋駅前の自転車置き場に自転車を止めて電車で熊谷に行き、帰ってきたら相澤雄司の自転車だけが盗まれていた事件があった。
数週間後に何やら改造されて発見された結末だった。盗難発覚時に「俺の自転車がない!」との絶叫に川北は思わず笑ってしまい、後々まで相澤に叱責され続けたのだった。
1年生春の試合は敗れた記憶がある。今回はダブルヘッダーで1勝1敗であった。
川北は走塁スライディング時にユニフォーム右足内側の縫い目が4~50㌢裂けるアクシデントを起こしてしまった。生足露出でプレーを続けるわけにもいかず、体格の近かった2年生、坂田和彦のユニフォームの下と交換させてもらってプレーを続けた。修繕用具もなく、練習試合終了後の整理体操を坂田が生足で行っており申し訳なかった。熊谷遠征はユーモラス(?)なアクシデントがつきものなのかもしれない。