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聞きたい

【昭和高校球児物語-前高 完全試合のキセキ-▶︎46】
選抜甲子園-2

2023.04.20

【昭和高校球児物語-前高 完全試合のキセキ-▶︎46】
選抜甲子園-2

甲子園の公開練習で「宿題」

PL学園の滞在は1泊ないし2泊程度だったろうか。甲子園での公開練習および2次キャンプ地というか、本番の宿泊地に向かう日となった。

朝、早い時間にPLの専用球場で練習し、バスに乗り込んだ。さあ、甲子園である。

川北にとってはプロ野球観戦でも高校野球観戦でも訪れたことはなく、初めての甲子園入りとなった。誰も来たことがあるふうなことは言っていなかった記憶である。投手として自身が出場した1948(昭和23)年夏以来、30年ぶりとなった田中不二夫監督を除いたほぼ全員が初体験だったろう。

▲母校の応援の駆けつけたOBの平澤裕寿さん(右)

▲巨大な甲子園球場。練習も浮かれることなくできた

甲子園球場の第一印象はやはり「大きいな」であった。ファウルグラウンドがとてつもなく広く、インフィールドがベンチやバックネット、スタンドからかなり遠く感じた。

ベンチとの一体感やコミュニケーションについて地方球場とは違う認識が必要だと感じた。そしてスタンドがとてつもなく高く壁のようにそそり立っていた。ビルで周りを囲われているようなものだった。音や声が銀傘やスタンドに大きく反響するのが分かった。

公開練習は時間が短い。出場各校が入れ代わり立ち代わり、40分程度の持ち時間で3日間くらいにわたって行われるのである。

1人数本のフリー打撃、シートノック、松本稔のマウンドからの投球練習とテキパキとこなせた。

フリー打撃時にはランナーとしても走り回り、スライディングもした。非常に心地よく滑ることができた。土質、平坦さ、締まり具合、サラサラ具合、いずれにおいても完璧なグラウンドであった。

田中監督からは「みんなそれぞれ、各守備位置から、自分を落ち着かせるために見る看板を決めておきなさい」と宿題が出されていた。

川北はサード守備位置の正面上部にある「甲子園飴」に決めた。白地に鮮やかな黒い達筆文字だった。

みなそれぞれどれに決めたのかを後で確認された。全員がウキウキして舞い上がってはいたが、宿題を忘れたメンバーはおらず、案外、地に足は着いていたことが分かった。

ちなみにエースの松本稔はこの日にマウンドの土を取っていた。後述するが、試合に敗れた後に取る甲子園の土はベンチ前しか許されないのだった。

▲甲子園の土。相澤家に大事に保管されている

相澤雄司が敗戦後に左打席の土を取りに行って審判に阻まれたりしたのだ。やはり松本は沈着冷静で抜け目もなかった。

老舗旅館の窯風呂で癒す

公開練習後、宿泊先へとバスで向かった。「中寿美花壇」という旅館だった。当時はまったく土地感がなかったが、阪急甲陽園線の甲陽園駅が最寄りのいわゆる六甲の山の手エリアにある老舗だった。甲子園からも車では近かった記憶である。現在もホテルとして営業しているようだ。

甲子園の時期には出場校の宿泊を受け入れていたようで、数年前に夏の甲子園を制覇した大分県の津久見高校の写真などが飾られていた。今回はマエタカおよび関係者で貸し切りだった。

▲現在はホテルとなった中寿美花壇

荷物をほどいてやれやれとしていると旅館の下働きらしいおじいさんが満面の笑みで呼び込みにきた。

「窯風呂入りなはれ。窯風呂。うちの名物でっせ。ぬっくいで~」

それならと入ってみた。大きな土釜と言うか、雪国ではおなじみのかまくらが素焼きで作られており、中には藁で編んだ敷物が敷かれていた。全体が熱せられて中は高温の空気が詰まっていた。言ってみればサウナである。「へえ~なるほどね」であった。

周辺に散歩にも出た。周囲は品の良い町並みで、少し歩くと甲山森林公園があり夕方の風も心地よく心も体も平穏であった。

部員3、4人だったと思う。濃い色のジャージと甲子園用に用意された黒いグラウンドコートをみな着ていた。

頭は三分刈りだった。通常の頭髪はスポーツ刈り。大会のときは五分刈り。今回はチームとして三分刈りにしなさいとの指示で、部員には大不評だったのだが…。

第三者的には町並みや公園の雰囲気にはまったくそぐわないツッパリ君に見えなくもない。すれ違う幼児を連れたお母さんたちは、幼児と怪しい集団の間に常に自分たちが入るようなガード体制を敷いていた。苦笑いするしかなかった。

甲陽園駅の売店で飲み物を買って飲んだ。お店のおばちゃんのズケズケ感が半端なかった。家の近所のおばさんかと思うような馴れ馴れしさで、群馬の田舎では経験できない関西おばちゃん攻撃の洗礼を受けた。

ずっと話を聞いていても終わりそうにないことが分かり、アイコンタクトで一斉撤退した。このおばちゃんを「しったかおばさん」と名付けた。「知ったかぶり」の「しったか」である。

当時、仲間内では「知ったかぶり」をして前に出てきていい加減な発言をする人を「しったか」と言っていたのだった。

田中監督の逆鱗に触れる

練習は各種グラウンド、野球場を借りて行った。同日に複数カ所を時間刻みで手配してもらっていた。

記憶は定かではないが、その日3カ所目のグラウンドへの移動を前にして急に、「練習しようか、どうしようか」に引率サイドがなったらしい。

「カワキタア~、どうする?」

バスの中で大声で尋ねられた。監督、先生、遠征に同行してもらった若手OBの面々が揃ってこっちに振ってきたのだった。

それまで練習の可否を尋ねられたことなど一度もなかった。川北の本音はもちろん「やらなくてもいいのだったらやめましょう」である。そんなことは聞かなくても分かるはずだ。

グラウンドの確保に尽力いただいた方の気持ちや間に立った人のこともある。そんなこんなを踏まえて大人が判断すべきではないか…。正直、お尻を持ってこられたような気がして腹が立った。

「やりましょう~」

気がついたらそう返事していた。川北に聞けばそう返事すると思われていたかもしれない。

もちろん部員たちは「なにやる気になってんだよ、カワキタ~」「練習すればいいと思ってんじゃねえの?よく考えろよ」と不満蔓延である。部員の大半もやらなくてもいいのであればやりたくないが本音である。それはそうだ。

グラウンドに着くと田中不二夫監督が「集中してやらないとケガするぞ。短時間集中練習だ。試合形式打撃で一本ずつ打ったら走る格好で」と暗にみなの気分もくみ取った対応指示をした。しかし、緩んでしまった集中力はなかなか戻らなかった。

▲OBや関係者が練習グラウンドを確保してくれた

その日の夜のミーティング。珍しく田中監督が全員の前で激怒した。

「お前たち、今日のざまは何だ!俺はお前たちを信じてやってるんだ!やりたい、やりたくないじゃあないんだ。やると決めたら集中しなければならないんだ。野球の試合展開はそういうものだろ!そういうことができるチームにしてきたつもりなんだ!それができなけりゃあ、うちは勝てないんだ。お前たちだって分かってるだろ!」

チームのメリハリという意味で、これは的確な中締めとなった。浮かれ気分は消し飛んだ。

かわきた・しげき

1960(昭和35)年、神奈川県生まれ。3歳の時に父親の転勤により群馬県前橋市へ転居する。群馬大附属中-前橋高―慶応大。1978(昭和53)年、前橋高野球部主将として第50回選抜高校野球大会に出場、完全試合を達成する。リクルートに入社、就業部門ごとMBOで独立、ザイマックスとなる。同社取締役。長男は人気お笑いコンビ「真空ジェシカ」の川北茂澄さん。