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【めぶく。会社】
小野里工業 小野里拓也社長に聞く
「まあるい発想」で仕事します
2023.06.16
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「煙突の小野里」の異名を持ち、製糸工場の煙突の施工で黎明期の礎を築くとともに、「生糸の市(いとのまち)前橋」の発展に大きく貢献した小野里工業。「まあるい発想」をテーマに掲げ、時代の変化に合わせ、柔軟に業態を変えてきた。小野里拓也社長は「常に半歩先を見てスピード感を持って対応していきたい」と強調する。
人材確保へ「何でもチャレンジ」
―業界、規模を問わず、週休2日制や労働賃金・労働環境の改善が求められています。
「コロナが5類に分類され、平常の生活に戻りつつありますが、昨年秋もまだ外食や宴席を控える風潮でした。家庭で食事をする機会が多かったので、英気を養ってもらおうと、魚沼の知人農家の新米を社員1人に10㌔支給しました。
『冬季ボーナスの現物支給か』と誤解した社員もいたようですが(笑)。もちろん、賞与は支給しましたよ。継続して待遇を改善していくため、必要以上の背伸びはできませんが、やれることは何でもチャレンジしていきます」
―資材高騰を始め、建設業界を取り巻く環境は厳しいですね。
「資材の高騰は、世界的なコロナ感染症から始まり、円安やウクライナ問題の影響もあり、引き続き楽観はできない。日本の物価が長期にわたり異常に安定していたことを考えれば、値上げの状況は続くと考えた方が妥当でしょう。
少子化による人手不足、DX(トランスフォーメーション)化と、さまざまな転換期にいることは確かでしょう。
かつてのように公共事業に頼ることはできず、先行き不透明な中で民間の設備投資なども、この先いつまで安定して続いていくか分かりません。
ただ、創業以来、こうしたピンチは幾度となくあり、耐え忍び、飛躍の糧としてきた歴史があります」
―創成期は「煙突の小野里」の異名を持ち、製糸工場の煙突施工を手掛けました。
「初代、小野里亀澄ですね。だれにも負けない『得意』を持っていたのは強かったです。地域の信頼をつかみ、確固たる人脈を築きました。その財産がいまにも繋がっています。
時代によって、手掛ける物件が目まぐるしく変わってきました。高度成長期は公共施設や公営住宅、病院、学校と社会インフラの整備に追われました。
その後、公共事業の減少を見越して民間にシフトしていきました。賃貸や分譲のマンションが増え、いまは福祉施設や病院などの受注が多く、民間の受注が売上の8割を占めています。
急激に変化する世の中ですので、これから先はまたどうなるか確実には読めませんが、常に半歩先を見てスピード感を持って対応していきたいです」
―変化する需要に即座に対応する必要がありますね。
「環境への意識から、ビルや家庭向け『屋上緑化』の受注の高まりが一定期間ありました。
でも、いまはそれが太陽光発電システムに切り替わっています。屋上緑化は心を癒してくれますが、電気代が急騰すれば仕方ないですね。
最先端の技術を導入し、時代に合わせて変化していく柔軟さが求められます」
—テーマに掲げている「まあるい発想」ですね。
「先々代である私の父の時代に制定したものですから、いまから30年以上前になります。
モノを建てるということから、より自然に優しい、より人間に潤いのある街づくりが求められている。地球環境全体を考えながら、自然・人間・技術をテーマに、柔軟な『まあるい発想』で仕事をしていきましょうという、社内外への呼びかけでした」
自然があって人間、技術と続く
—地球環境への配慮はいまでこそ当然ですが、当時としては先進的な考えでしたね。自然があって人間、技術と続きます。
「技術は大事ですが、あくまで自然や人間のためなんですね。現在も改良しながら採用している『両面断熱コンクリート工法』もこのころから始めています。省エネ効果に加え、抜群の遮音性、耐火性能を持ち、おかげさまで個人住宅から福祉施設、病院など多くの施工実績を残しています」
—人間といえば人材確保は業界の重要課題です。
「建設業界全体で魅力ある業界になるよう取り組んでいかなければならないでしょう。デジタル化を進め、生産効率を高めていくことが求められるでしょう。
新規採用は続けていますが、若い職員の定着に力を入れています。建設業はカタチが残る仕事です。一つの建物や道路ができるまでは決して楽ではありません。厳しいこともあります。でも、それを乗り越えて完成したときの達成感は何物にも代えられません。その喜びを知ってほしいのです。
幸い、ここ5、6年、有望な若手が入社しています。『1人前になるまで10年』といわれる業界です。取得が難しくなっている資格試験を後押しすることで、必然と賃金も上がります。
期待を超える価値を生み出し、お客さまに必要とされる人・企業となり、『小野里でよかった』と施主さまだけでなく、お取引先のみなさまや全社員にも感じてほしいと考えております」
黎明期支えた技術と人脈
初代、小野里亀澄は「煉瓦・左官請負業」の看板を掲げ独立した。最初の仕事は丸登製糸工場拡張の左官工事。後に前橋商工会議所会頭となる施主の片倉久登氏に目をかけられ、黎明期に成長の礎を築くことになった。
製糸は座繰りから機械へと移りつつあった。製糸工場に不可欠だった煙突を煉瓦で積むのを得意とし、次々と煙突を施工。「煙突の小野里」の異名を取るほどだった。
関東大震災後の復旧需要を受け、建築工事を手掛けるようになった。準備として、利根、吾妻、勢多の山林の立木を買収し沼田に製材所を開設。これが後になって社の窮地を救うことになった。
戦後復興が急速に進む中、インフレにより資材が高騰、多くの建設業者が苦しんだが、木材をある程度自給できたことで乗り切った。
朝鮮戦争の特需、高度成長に合わせて社業は大きく成長した。病院や学校、公共施設や公営住宅を受注、社会インフラの整備に尽力した。
創業50周年の1960(昭和35)年、記念行事として前橋公園やさちの池に桜50本を植樹。1965(昭和40)年には「赤城大鳥居」を建立した。いまではともに前橋の名物となっている。
小野里工業
1910(明治43)年、琴平町(現住吉町)で小野里組として創業。1970(昭和45)年、現在の下小出町に本社を移転する。建築・土木の設計・施工を行う総合建設業。本社のほか埼玉支社、東京支店。近年は病院や福祉施設の建築を多く手掛ける。
小野里工業歴史
- 明治43年
- 前橋市において小野里亀澄個人経営にて土木建築請負業を創業
- 大正12年
- 関東大震災復興救援のため東京日本橋蠣殻町に東京出張所開設
- 13年
- 浦和市北浦和町に浦和出張所開設
- 昭和9年
- 小野里組と改称
- 14年
- 小野里組を株式会社小野里組に改称
- 20年
- 戦争終結と共に小野里工業株式会社に改称
- 31年
- 第2代社長に小野里光明就任
- 45年
- 本社屋新築により前橋市下小出町へ移転、創業60周年記念式典。
- 55年
- 創業70周年記念式典
- 61年
- 第3代社長に小野里節司就任
- 平成 2年
- 創業80周年記念式典
- 11年
- Family Care ONOZATO開設
- 12年
- 創業90周年記念 植樹・海外視察研修会
- 14年
- Sky-Roof Garden開設
- 21年
- 第4代社長に小野里仁就任
- 22年
- 創業100周年記念式典、「緑のカーテン」プロジェクト
- 24年
- 太陽光発電システムの販売/施工事業参入
- 26年
- 本社屋を改築
- 2003年1月
- 安藤株式会社の農薬の販売に係る営業を譲受。
- 27年
- 第5代社長に小野里拓也就任
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