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【鈴木貫太郎の群馬学的考察▶1】
中島知久平の国防構想に理解

2024.07.30

【鈴木貫太郎の群馬学的考察▶1】
中島知久平の国防構想に理解

太平洋戦争を終戦に導いた前橋市ゆかりの元首相、鈴木貫太郎。軍部が主張していた本土決戦を回避、無数の命を救った偉業に光を当てようと、前橋鈴木貫太郎顕彰会が4月に発足した。顕彰会の発足にも尽力した群馬地域学研究所の手島仁代表理事に群馬県とかかわりのある鈴木の功績を解説してもらう。

政治王国と内陸型重工業県

 昭和天皇のご聖断を仰いで終戦を実現した内閣総理大臣・鈴木貫太郎というと、幼少期を前橋市で過ごしたので、同市とだけ関係があると思われがちであるが、実は群馬県と深い関係がある。
筆者は群馬県の特長を尋ねられた時、「群馬県は政治王国であり、内陸型重工業県です」と答えることにしている。
「政治王国」とは、福田赳夫・中曽根康弘・小淵恵三・福田康夫の4人の内閣総理大臣をはじめ、大物の政治家を多数輩出していることによる。戦後の政治体制は、自由民主党(保守)と社会党(革新)の二大政党によって担われてきた。群馬県はその両党から党首や国務大臣を誕生させている。
「内陸型重工業県」とは、群馬県が「海なし県」であるにもかかわらず、年間工業生産出荷額が香川県・徳島県・愛媛県・高知県を合わせた四国4県より多いことによる。
 このような群馬県の政治的、経済的な隆盛の源流をたどると中島知久平に行き当たる。知久平が現在の太田市で創業した中島飛行機製作所は、日本一の飛行機メーカーに成長し、わが国の重工業勃興の一翼を担った。飛行機製造は多部品組立で、その伝統は中島飛行機が富士重工業(スバル)に転換しても生かされ、群馬県は明治期からの絹業県から戦後の高度成長期を経て内陸型重工業県へと発展した。
 知久平は昭和5年(1930)に衆議院議員となった。それから7年後の同12年に近衛文麿内閣で鉄道大臣として入閣。同14年には立憲政友会総裁に就任した。国務大臣も党総裁の輩出も、群馬県人として初めてであった。上州人宰相、多数の国務大臣が生まれたのも、政治家・中島知久平がその出発点であった。
 現代の群馬県は中島知久平の遺産の上にあるといってもいい。多くの県民は尊敬と親しみを込めて「知久平さん」と今でも呼んでいるが、中島知久平の恩人こそ、鈴木貫太郎であった。

大艦巨砲主義を批判

 中島知久平が海軍機関学校在学中に、日露戦争で日本がロシアに勝利した。海軍は日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を撃破した。日露戦争後に定められた「帝国国防方針」では、海軍は戦艦8隻・巡洋艦8隻の「八・八艦隊」建造を目標とした。同計画は軍令部長となった東郷平八郎がアメリカの建艦計画に対抗し策定したものであった。
 しかし、知久平は①経済力のない日本の国防方針は、大艦巨砲主義や陸上の砲数と兵数とに重点を置く戦略から、ある程度の資力を集中して航空兵力重点主義に改めねばならない。②日本の飛行機製造の水準は欧米先進国に比べて遅れているので、これを挽回するにはお役所仕事の官業では非能率で、軍部と連絡を保ち、技術の発達を図り、国はそれを補助するーとの考えから海軍を辞め、民間航空工業の開拓者となり、国家的な理想を達成する決意をした。
 近代日本の最大の輸出品が生糸であった。養蚕製糸業に携わった人々の苦労の結晶であった生糸で稼いだ外貨が「軍艦と大砲」になった。大艦巨砲主義への批判は、蚕の国・上州で育った知久平が導き出した結論であった。

日本を救った「聞く力」

 しかし、知久平の国防構想は、海軍の軍艦を主力とする大艦巨砲主義への警鐘であったため、海軍首脳部から白眼視された。
 海軍では病気以外の理由による途中退役を認めなかった。知久平は、海軍から追放されるような奇行・非行を繰り返した。その身を案じた千葉県出身の岸田東次郎機関少佐は、同郷の海軍次官・鈴木貫太郎に「中島はまれに見る立派な人物だ。われわれと同じ関東人でもあるから、ぜひ彼の志を遂げられるよう取り計らって欲しい」と頼んだ。
 鈴木は岸田と知久平を次官室に呼んだ。知久平の訴えを聞いた鈴木は、知久平の休職願を善処するよう指示し、温情を以て退官させた。鈴木は日露戦争での戦功を生涯の自慢とし、自宅の応接間に東郷平八郎元帥の写真と軍艦「陸奥」の油絵を飾り、駆逐艦「朝霧」の模型を置くほどであった。
 その鈴木が知久平の大艦巨砲主義を批判する国防構想に理解を示したのであった。こういうのを「聞く力」という。鈴木の「聞く力」こそが、日本を救うことになるのであった。
 知久平と親しかった埼玉県選出の衆議院議員石坂養平は「人の悪口を軽々しく言わぬ代わりに、人を軽々しく褒めることもしなかった」知久平が、「ときどき鈴木貫太郎を褒めちぎった。それは、もとより鈴木その人に内在する人格識見を知ってのことであるけれども、同時に退役の際における鈴木の好意と尽力に深い感謝の念を表すもの」であったと語っている。
 知久平は大正6年(1917)5月郷里・尾島町の養蚕小屋を借りて「飛行機研究所」を設立。海軍機関大尉で6月1日付待命となり、12月1日に予備役に編入され、同21日に飛行機研究所を太田町(太田市)に移した。
 鈴木貫太郎が海軍次官であったのは大正3年4月17日から同6年9月1日までであった。鈴木が海軍次官でなかったら、実業家・政治家中島知久平はなかった。
一般社団法人群馬地域学研究所代表理事
手島 仁

前橋鈴木貫太郎顕彰会DVD観賞・輪読会

会場 ヒストリア前橋(アクエル前橋2階)

ホームページ https://www.kantarou-heiwa.com/
日時 8月7日(水)17時~19時
参加 無料(参加希望者は顕彰会に入会する)
内容 昭和史の第一人者、保阪正康氏の解説によるDVD「日本ニュースが伝えた戦中・戦後~昭和・激動の首相たち」を観賞、「鈴木貫太郎自伝」を輪読する。
入会方法 前橋鈴木貫太郎顕彰会HPから(https://www.kantarou-heiwa.com/)

鈴木貫太郎(すずき・かんたろう)

1868年、和泉国伏尾(現大阪府堺市)に関宿藩(千葉県野田市関宿町)の藩士の子として生まれる。千葉県から前橋に移り、厩橋学校(現前橋市立桃井小学校)、群馬県中学校(現群馬県立前橋高等学校)で学んだ。海軍兵学校に進み、日清、日露戦争に従軍。連合艦隊司令長官などを歴任後、侍従長として昭和天皇に仕えた。1936年の二・二六事件で銃撃されたが一命を取り留める。1945年4月、首相に就任、同年8月、ポツダム宣言を受諾した。1948年、千葉県関宿町(現野田市)の自宅で死去する。享年81歳。