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聞きたい

【昭和高校球児物語-前高 完全試合のキセキ-▶︎35】
高校2年秋3

2023.04.06

【昭和高校球児物語-前高 完全試合のキセキ-▶︎35】
高校2年秋3

3回戦、0-4から逆転勝利

1977(昭和52)年9月23日、秋季大会3回戦の相手は太田工業高校。例年、ベスト16か8には進んでくる中堅校だ。この時は下級生から出場している俊足選手や試合巧者の左利き選手、1学年下に後にプロ入りする左打ちの大柄な捕手がいた。

会場は伊勢崎市営球場。1年前の秋の関東大会前、ここで球場練習を数日行った経験があった。

当時外野手だった川北はクッションボール処理がうまくできずにライトの外野フェンスに壁当てをしていた思い出があった。あまり良い思い出ではなかったが、この日の試合展開もはかばかしくなかった。序盤に安打や失策で一挙に4点を先行された。0対4となった。

「コールド負けって、何回で何点差だったっけ…」

守備中にセンターのスコアボードを真剣に眺めたりした。後々聞くと全員、そんな思いがかすめていたらしい。

しかし、そこから地道な攻撃を繰り返して行くことができた。川北も四球や内野安打で出塁してチャンスメイクに貢献した。

エース松本稔も何かを切り替えたと思われる投球に転じ、その後を零封。結果6対4での勝利となった。この試合は、この秋の公式戦中では後々語り草となる最大のピンチであった。ここで敗退していたらごくごく平均的なチームで終わっていたことだろう。

▲4-4で迎えた8回、1死満塁から佐久間秀人が三遊間を破るヒットで逆転に成功(写真は桐生高OBとの練習試合から)

▲佐久間に続いて高野昇がスクイズを決める

準々決勝も逆転勝ち

10月2日、秋季大会準々決勝、また伊勢崎市営球場だったろうか。マエタカの相手は館林高校だった。館林市は群馬県の中でも少し特異な場所にある。

群馬県民必修の上毛カルタの「つ」は「鶴舞う形の群馬県」だが、ちょうど鶴の首から頭にかけての場所が館林なのだ。栃木県、埼玉県のすき間に群馬県鶴が細く頭を突っ込んでいるような格好なのである。

ロケーション的に普段、練習試合をする交流関係も薄かった。県立の普通科高校で、どことなくチームカラーは近い匂いがしていたが、この代はマエタカとは対照的に大柄な選手が多かったように思う。翌春にも準々決勝で対戦する地力のあるチームであった。

試合は先制され前半拮抗したが終盤、大量点を獲得でき、10対1。比較的スムーズに8回コールドで勝つことができた。

因縁のマエコウ、闘志で下す

さて、準決勝は10月10日。以降は秋季大会メイン会場の桐生球場となる。相手はあの前橋工業高(マエコウ)であった。川北たちが入学してからマエコウには公式戦、練習試合を通じて一度も負けていなかった。

この時のマエコウはマエタカに必死で向ってきていた。相手の先発投手は後に日本石油から大洋(現DeNA)入りする大型右腕、1年生の高橋一彦。何でもマエコウの高橋幸男監督が「素質は江川卓以上」と評したとの噂が飛び交っていた。

マエコウは作新学院1年生時の江川投手と秋季関東大会で対戦しており、その当時も高橋幸男監督であった。なので、その評価の噂も本当であれば信憑性があった。

一方、マエタカ。試合前にベンチ前で素振りをしていた茂木慎司のバットが川北の右手の人差し指に当たり、ざわつく不安なスタートとなった。

骨への異常は感じなかったが送球時の球離れの力がまったく入らず、イニング間の守備慣らしでは緩くバウンドさせて投げるしかなかった。いつもならむしろ、このイニング間の守備慣らしで肩の強さを見せつけるパフォーマンスを川北は心掛けていた。

ファーストの佐久間秀人が転がしてくるゴロを遠い位置で捕り、低く速い送球を目一杯の力で投じていたのだ。これを見せることでセーフティーバントなどの小技を予防しようと考えてのことだった。

それがこの日はできなかったのだが、逆の効果をもたらしていたことを後で知った。川北の状態を見たマエコウベンチではこんな憶測をしたようだ。

「肩痛めてるのか?」

「そんな状態だったら使わないだろう。」

「肩痛めたふりして誘ってる?」

そんな会話があったらしい。2本程度あったサードゴロも何とか必死で捌いたので、なおさら買い被り&疑心暗鬼状態であったらしいのだ。おかげで嫌らしい攻撃の標的にもならず助かった。

マエコウの高橋の投球は強さを感じはしたが、速さや切れは感じなかった。比較的高めに球が暴れていた。川北はインコース高めを攻められ、自身は喉への死球認識だったが判定はファール。まともに喉に食らった格好でしばらく声が出せないようなこともあった。

試合は緊迫していた。中盤、内野安打で出塁してセカンドに進んでいた川北は牽制で刺された。少しリードをとっただけであったがショートの帰塁が一瞬早く、タッチと言うよりは川北の足をタックルするかのように抱きかかえてきて触塁を阻まれた。

うまさと執念を感じた。アウトとなってベンチへ戻って行く際に、「何やってんだ!お前はキャプテンだろ!」とスタンドから容赦ない怒声を浴びた。顧問の内山武先生の声であった。

うなだれながらみなに、「ほんっと、すまん」としか言えなかった。

田中監督は「ショートと重なる位置にいたら、向こうが先に動き出せば間に合わないよ。重なる位置に出ちゃあダメなんだよ」と指導した。

もっともであった。このことは二度と忘れることはなく、少なくともこれ以降、セカンドで牽制で刺されることは無かった。(ファーストではその後も刺されたが)

▲田口はコツコツ練習して力を付けた

この試合でみなの闘争心に火をつけ、結束を高める出来事もあった。マエコウのキャッチャー、茂木好二がマエタカの9番、田口淳彦を「おまけ」呼ばわりしたのである。

茂木にしてみればピッチャーをリラックスさせるための声掛けだったと思う。

「大丈夫、大丈夫。このバッターはおまけだから、打てないから」

カッチーン!。マエタカナインにとって、田口は決してうまくはないが頑張りの象徴だった。しかも負けず嫌いでひがみ根性の強いマエタカ野球部員にとって、苦楽を共にしてきた仲間をおまけ呼ばわりされて怒りに火が付いた。

「お前に田口の何が分かる!」。マエコウの茂木はこの瞬間からオマケという名前になった。彼を打席に迎えるとマエタカナインは全員で、「オマケだ。オマケだ。大丈夫。打てないよ~」となった。彼も災難だったと思う。

▲7回裏、1死1,2塁から佐久間秀人の中前打で2塁走者、相澤雄司が生還、4-4の同点に追いつく

試合は四つに組んだ展開だったがマエタカへの流れは健在。5対4、僅差で勝つことができた。

かわきた・しげき

1960(昭和35)年、神奈川県生まれ。3歳の時に父親の転勤により群馬県前橋市へ転居する。群馬大附属中-前橋高―慶応大。1978(昭和53)年、前橋高野球部主将として第50回選抜高校野球大会に出場、完全試合を達成する。リクルートに入社、就業部門ごとMBOで独立、ザイマックスとなる。同社取締役。長男は人気お笑いコンビ「真空ジェシカ」の川北茂澄さん。