interview
聞きたい
【昭和高校球児物語-前高 完全試合のキセキ-▶︎14】
高校1年夏新チーム-3
2023.03.07
三振 悲惨だった初試合の打席
新チーム最初の練習試合の相手はトミオカだった。当時、富岡高校野球部の監督はマエタカ野球部OBの東野威さんが務めていた。
マエタカの田中不二夫監督より後輩であったが、富岡高校監督をこの時点でも長く務め、その後、前橋商業高校などを指導された。
トミオカのグラウンドに出かけた。春季大会準決勝で戦っていたこともあり、何人か知っている選手が残っていた。
大エース、大須賀誠一は引退しており、新エースは広木政人だった。長身、大柄でしなやかな本格派。後にロッテにドラフト指名されてプロ入りする。トミオカは投手が育つチームでもあったのだ。
試合展開はマエタカが劣勢で大量点差をつけられてしまっていた。が、最終回に広木投手が乱れた。恐らく試合でのカーブ投球の練習を監督から指示されたのだろう。
カーブ、カーブと連投してきて、それがことごとくボールであった。それでもカーブ、カーブを連投してくる。四球、四球の連続で押し出しが続いた。
マエタカ側も新チーム初試合、最終回ということで全員を出場させるべく代打、代打を送った。代打で打席に立った選手はみな、一球もスイングすることなく四球で出塁していく。
石井彰、茂木慎司、田口淳彦と続き、一番最後に川北がスコアブック記入のペンを置いて打席に立った。もちろん、川北も立っているだけで四球なのだろうと思っていた。
「ストライークッ!」
えっ、ブレーキ鋭いカーブが決まった。えっ、と思い、打席を外してベンチを見る。
「笑ってんじゃない!」
田中監督にどやされた。えっ、でも、でも。
「ストライークッ!ツー!」
はっ? 何で? 俺だけ?
最後もブレーキ鋭いカーブ。空振り。
「ストライークッ!バッターアウト!」
訳が分からなかった。なぜ急に広木投手がナイスピッチをできたのか。しかもその後も四球押し出しは続き、マエタカは逆転勝ちを収めることとなったのだ。
なので川北の高校対外試合初打席の顛末は余計に際立つこととなった。中途半端な気持ちで打席に入った結末。溜息しか出なかった。
悩まされた「返球イップス」
この高校デビューのいまいち加減に加えて、このころから気が付いた悩みが川北にはあった。それは近年いろいろな場面で言われるようになった「イップス」である。正確に言うと返球イップスであった。
中学時代にはピッチャーもやっており、肩の強さは川北の売りでもあったのだが、投球、送球といったレベルで思い切って投げる際には全く問題ないのに、何気ない返球の際に球が指から離れなかったりしたのである。
最初にその症状が出たのはプルペンキャッチャーをしていた時だった。比較的大人しく、体格もよい方だったからかプルペンキャッチャーを頼まれることがよくあった。
相手が上級生で横に監督やOBが付いている場合、本当にちょうどよい返球を返さなくてはならない。その度合いが強ければ強いほど右手はしなやかに動かず、まともな返球を返すのに難儀をした。地面に叩きつけたり、とんでもなく高い返球だったり。
すると、「なんだ、お前!ちゃんと放れ!」と、どやされた。注意力散漫でやっているように思われたのだろう。川北にしてみたら必死であった。許されるなら1球ずつ走って球を届けたいくらいの気持ちだった。
イップスという概念もなかったので、気持ちで何とか乗り越えなければならないと思い試行錯誤もした。バッティングピッチャーを買って出て、よい球をコントロールよく数多く投げることを心掛けたりもした。
が、結局、最上級生になっても「何気ない返球」はうまくできなかった。ほどよくちょうどよいところに投げなければと思うほど右腕、肘、手首、指はぎこちなくなった。
しかたなく、できるだけ投球、送球レベルで思い切って投げることでそこはカバーした。
後にサードを守ることになるのだが、その際、最も緊張していたのは投手からの牽制球の返球をスッと返す時だった。
後年、それがイップスであったことを知ったが、イップスは治すものでなく克服するものと聞き、大いに納得をしたのである。
かわきた・しげき
1960(昭和35)年、神奈川県生まれ。3歳の時に父親の転勤により群馬県前橋市へ転居する。群馬大附属中-前橋高―慶応大。1978(昭和53)年、前橋高野球部主将として第50回選抜高校野球大会に出場、完全試合を達成する。リクルートに入社、就業部門ごとMBOで独立、ザイマックスとなる。同社取締役。長男は人気お笑いコンビ「真空ジェシカ」の川北茂澄さん。