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【鈴木貫太郎の群馬学的考察▶2】
人生の出発点と到着点

2024.08.24

【鈴木貫太郎の群馬学的考察▶2】
人生の出発点と到着点

来年は戦後80年を迎える。時代の節目を迎え、終戦時の内閣総理大臣・鈴木貫太郎が注目されている。そうした中で貫太郎の孫の鈴木道子さんが今年3月に『祖父・鈴木貫太郎―孫娘が見た、終戦首相の素顔』を上梓された。

永遠の平和

 『祖父・鈴木貫太郎―孫娘が見た、終戦首相の素顔』で道子さんは貫太郎の最期を次のように語っている。

  「私の母は毎日のように看病に上がっていたが、十六日、祖父危篤の報を受けて私たちも駆け付けた。母によると、祖父のうわ言に出てくるのは、全て国家の大事に関することばかりだったという。やや朦朧となっていたが、突然はっきりと「永遠の平和」「永遠の平和」と二度言って、意識がなくなったという。

 私が到着した時は、すでに意識がなかった。家の中には十数人、庭にも大勢の方々が集まって見守っておられた。私は祖父の枕元の左側に座って、祖父の手を握った。右側には祖母が座って祖父の体をさすっていた。

 誰からともなく観音経が始まり、それがやがて「念彼観音力、念彼観音力」の大合唱となった。私は祖母が初めに唱え出したのだと思っていたが、後に祖母は誰か分からないと言っている。

 観音経が響く中で、祖父貫太郎はすべて燃え尽き、静かに息を引き取った。」

正直に腹を立てずに撓まず励め

 道子さんのこの証言からであろう。鈴木貫太郎が「永遠の平和を唱えた偉人であります」と語る人が出て来た。貫太郎が「永遠の平和」と言ったのを聴いた人は、道子さんのお母様など僅か、道子さんも直接、聴いたわけではない。

 貫太郎は内村鑑三や住谷天来のように、日露戦争から非戦論を唱え続けたわけではない。戦場へ送られた兵士は、何のための戦争であったのかを反芻し、異口同音に「東洋平和」「東洋永遠の平和」と言葉を連ねて、それを大義として死んでいった。

 NHK朝のテレビ小説「虎に翼」で主人公の寅子が「はて?」と首をかしげる。貫太郎を「永遠の平和を唱えた偉人」と言われると「はて?」となる。

 「永遠の平和」は道子さんら鈴木家の人々が言えることで、私ども前橋の者は、鈴木貫太郎が母校となる桃井小学校の教訓碑のために与えた「正直に 腹を立てずに 撓まず励め」という言葉こそ大切にすべきで、そこから貫太郎が遺した「永遠の平和」という言葉を考えなければならないと思う。

 桃井小学校は羽鳥耕作が校長に就任すると、貫太郎を母校の誇る卒業生として、学校教育に生かそうと、貫太郎とのつながりを密にした。昭和11年(1936)3月、同校は卒業生が1万人に達することになった。そこで、記念碑(教訓碑)を建て貫太郎の言葉を刻むことにした。貫太郎は1月に「正直に 腹を立てずに 撓ます励め」と揮毫した。

 翌月、「二・二六事件」に遭遇し、瀕死の重傷となった。そこで、3月の記念式には参列できなかったが、羽鳥校長と全職員・児童は前橋八幡宮に日参して平癒を祈り、見舞いの手紙を送った。

自己の体験を教訓に

 貫太郎の父・由哲は群馬県が教育県であったので群馬県庁に奉職し、一家は千葉県・関宿から前橋に転居した。転校生の貫太郎はいじめにあった。父は貫太郎に「人間は怒るものではないよ、怒るのは自分の根性が足りないからだ、短気は損気ということがある、怒って成功しない、皆自分の損になるばかりだよ」と諭した。

 貫太郎が海軍中将の大正8年(1919)5月、招かれて桃井小学校で「私は四十年も昔、桃井小学校の生徒であった。私はその時分そんなに勉強したとは思っていないが、勉強しなければ偉いものにはなれない。私は今でも勉強を怠らない」と全校児童を前に語った。貫太郎51歳であった。

 昭和9年(1934)11月10日から14日に陸軍特別大演習があった。侍従長であった貫太郎は12日に桃井小学校を訪問し、次のように訓話した。貫太郎66歳であった。

 「…私は少年の頃父から一つの教訓を受けそれを当時は何の気なしに頭にもってゐたが、これが非常に好い教訓であった。多分十一、二才の頃であったと思ふが父が県庁に行き乍ら町を通ってゐる時、父の傍らについて学校へ行く私に「人間は怒ってはいかぬ、腹を立てない事が一番大切である」とさとされた事である。…その後人と議論したり喧嘩したりするようなことがあると、これは父が言った怒ることであると思って押へつけて来た…私は今日でもそういふ心持ちをもって修養して居り有益だと信じているから参考までに話す次第である。…この努力を集積して行ったものは何年かの後には大成する。…われわれは常に此の点に注意着眼して一生人間の修養を怠らぬ事が肝要である。」

 貫太郎が桃井小学校に与えた教訓は、貫太郎の人生と共に出来上がった。貫太郎にとって「正直に 腹を立てずに 撓まず励め」が人生の出発点で、「永遠の平和」が到達点であった。

三偉人から学ぶ

 鈴木貫太郎は『自伝』の「世界の理想 戦争抛棄」で、次のように語っている。

 「新憲法草案に世界で最初の戦争抛棄という条項が規定されているようであるが、戦争抛棄ということは理論としては立派だが、これを実現するためには、一国の力だけでは不十分であり、国際連合のような世界的統一機構が、大きな力を発揮し弱小諸国を保護し、この理想に邁進して貰わねばならぬであろう。これは重大な試みであると同時に世界人類の理想として発展すべきであるが、それには大国が自己の野心を棄て、平和的にかたまって行かねばならぬと思う。…(略)…すなわち今後の戦争は人類の破壊を招くほどの慘酷なものとなろうから、その意味からいっても地球民族は相互に文化を尊重し合い、戦争を回避して行くべきである」。

 貫太郎の没後の世界は、米ソ対立の冷戦構造となった。国内もそれを反映した親米の保守と親ソ・親中の革新の対立となり、自由主義・資本主義か社会主義・共産主義か、体制選択が迫られた。

 群馬郡国府村(高崎市)出身で同志社総長を務めた住谷悦治は、革新陣営の進歩的文化人の代表であった。戦後の平和運動の支柱であったが、「誠実こそが、わたくしたちが人生・社会を貫いて、不朽のものとして、身につけねばならぬものです」と、平和を社会主義のイデオロギーに求めず、万人の心の中に求めた。

 群馬郡金古町(高崎市)出身の群馬県初の内閣総理大臣・福田赳夫は、保守陣営の頂点に立った政治家であった。福田は首相・大統領経験者らによるOBサミットを開催し、地球規模の諸問題を解決しようと「世界中の墓地は、勝敗にかかわらず生命を落とした兵士たちの墓で埋め尽くされている。平和こそが全人類の目標であり、世界の進歩の礎にしなければならない」と訴えた。

 福田は「OBサミットで、世界平和と人類の幸福のためには“心の問題”と真正面から取り組まねばならない」と確信し、すべての宗教、民族などに共通の「普遍的な倫理基準」を模索した。その結果、得られたのが、「おのれの望まざることを人になすな(自分が他人から望むことは、自ら他人にもなす)」という黄金律であった。

 鈴木貫太郎、住谷悦治、福田赳夫。群馬県ゆかりの偉人の到達点は同じであったことが分かる。三偉人の生涯から学ぶことは、万人の心が平和の礎であるということである。これこそが、上州・群馬県から発信しなければならないことではないだろうか。

一般社団法人群馬地域学研究所代表理事

手島 仁

特別対談「平和への願い~鈴木貫太郎の生涯~」

・日時 8月31日(土)
11時~12時20分
・会場 前橋プラザ元気21・3階ホール
・登壇 前橋鈴木貫太郎顕彰会会長、腰高博さん、理事、手島仁さん

鈴木貫太郎(すずき・かんたろう)

1868年、和泉国伏尾(現大阪府堺市)に関宿藩(千葉県野田市関宿町)の藩士の子として生まれる。千葉県から前橋に移り、厩橋学校(現前橋市立桃井小学校)、群馬県中学校(現群馬県立前橋高等学校)で学んだ。海軍兵学校に進み、日清、日露戦争に従軍。連合艦隊司令長官などを歴任後、侍従長として昭和天皇に仕えた。1936年の二・二六事件で銃撃されたが一命を取り留める。1945年4月、首相に就任、同年8月、ポツダム宣言を受諾した。1948年、千葉県関宿町(現野田市)の自宅で死去する。享年81。