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「永遠の平和」守ろう
前橋鈴木貫太郎顕彰会が発会

2024.04.17

「永遠の平和」守ろう
前橋鈴木貫太郎顕彰会が発会

太平洋戦争を終戦に導き日本に平和をもたらせた救国の宰相、鈴木貫太郎の生きざまを後世に語り継ごうと、前橋鈴木貫太郎顕彰会(腰高博会長)の発会式が命日である4月17日、前橋市の群馬会館で開かれた。孫で音楽評論家の鈴木道子さん(92)も駆けつけた。式には趣旨に賛同する230人が集まり、鈴木がいまわの際に2度つぶやいた「永遠の平和」を守っていくことを誓い合った。

戦争を終わらせる決意

パネルディスカッションに登壇した鈴木道子さんは終戦近くの小学生時代、秋田県に集団疎開するのを渋っていた際、首相になっていた祖父から「若い人は安全な所に行きなさい。次の時代を築いてくれなければならない」と説得され、「『次の時代』があるということは戦争が終わるということ。その役目を祖父がするのが分かった」と秘話を語った。

▲著書『祖父・鈴木貫太郎』を手に思い出を語る道子さん

首相に就任してから好戦的な演説をしたことについては、「本土決戦を主張する陸軍を抑えるため。平和主義者であり、天皇陛下と同じ思いだった」と最後は御前会議で昭和天皇の「聖断」を仰ぐ形で終戦を実現した背景を明かした。

▲パネルディスカッションに出席した笹川さん、鈴木道子さん、鈴木ヤエさん(左から)

休館中の鈴木貫太郎記念館の再建に取り組んでいる野田市の学芸員、笹川知樹さんは3月までに整備の基本構想が策定されたことを説明、「大切な資料を守り、多くの人に功績を知ってもらうため、博物館のようにしたい。基金にふるさと納税も活用したい」と物心両面の協力を呼び掛けた。

鈴木の桃井小の後輩にあたり、道子さんと同じ歳という鈴木ヤエさんは「朝、登校すると『正直に腹を立てずに 撓(たゆ)まず励め』と刻まれた石碑に敬礼した。子供や孫も同じ学校に通い、メロディーが付けられた教訓歌を歌っている」と鈴木の教訓が継がれていることをうれしそうに紹介した。

▲腰高会長(左)と手島さん

群馬の総理大臣は5人

パネルディスカッションに先立って開かれた発会式では、腰高会長が「鈴木は軍人だったが、平和主義者だった。功績を前橋の誇りとし、後世に伝えるのが平和の時代を享受している我々の使命」と顕彰会の発会を宣言。野田市の鈴木有市長と前橋市の小川晶市長が顕彰会の発展を祈念して挨拶した。

千葉県出身の小川市長は「群馬県に来て総理大臣が4人出ていると聞いたが、(鈴木を加えて)5人いるんだなと思った」と再評価の必要性を訴えた。

▲前橋市と連携し顕彰活動にあたると強調する鈴木市長

▲「群馬の総理は5人」と片手を広げる小川市長

群馬地域学研究所理事長の手島仁さんは「鈴木貫太郎と前橋」と題して講演、前橋市の教育が先進的だったことから鈴木が幼少期に転居してきたことをはじめ鈴木家と前橋の歴史を解説するとともに、片原饅頭が大好物だったという裏話も紹介した。

顕彰会事務局長を務める筝曲者の鈴木創さんと尺八の牧原笳童さんが『春の海』を演奏。鈴木さんの箏の音に合わせて、『教訓歌 正直に』を来場者で合唱した。

▲箏と尺八の二重奏で盛り上げる

▲桃井小の卒業生を中心に合唱する

鈴木貫太郎

すずき・かんたろう 1868年、大阪生まれ。千葉県から前橋に移り、桃井小、旧制前橋中で学んだ。海軍兵学校に進み、日清、日露戦争に従軍。連合艦隊司令長官などを歴任後、侍従長として昭和天皇に仕えた。1936年の二・二六事件で銃撃されたが一命を取り留める。1945年4月、首相に就任、同年8月、ポツダム宣言を受諾した。1948年、幼少期を過ごした千葉県関宿町(現野田市)の自宅で死去する。享年81歳。