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聞きたい

【聞きたい宮崎雄一さん】
日本一のファミリーレストランへ

2023.05.28

【聞きたい宮崎雄一さん】
日本一のファミリーレストランへ

手作りのドレッシングが人気テレビ番組に取り上げられ、その名が全国区となった「ペスカ」。運営するHAWORD社長の宮崎雄一さんは熊本生まれの「肥後もっこす」。純粋で正義感が強く頑固者。みんなをハピネス(幸せ)にすることを企業理念に掲げる。目指すは「日本一のファミリーレストラン」。

ドレッシングに活路

―コロナ禍で飲食店経営はかつてない逆風にさらされています。影響はどうですか。

ピンチでしたね。第一波の際は1カ月、店を閉め600万円の赤字を出しました。これが続いたら、やばいなと正直しんどかった。

でも、すごくワクワクもした。どこも厳しいのは同じ。いい意味で競い合い、うちを選んでもらえるようにしなくてはと覚悟を決めました。

コロナのおかげで方向性が明確になった。「日本一のファミリーレストラン」を目指そうと。社員一人一人の役割とか、使命がはっきりしました。

―人気のドレッシング販売を強化しました。

店で提供するドレッシングが「これ美味しい」「販売して」と評判になり、店で飲食しなくても買えるように自動販売機を設置したところ、テレビで放映され、爆発的なヒットになりました。

コロナで店を開けないので、これで勝負しようと工場を作りました。自分はスーツを着て営業に飛び回った。外食ができなくなる中、家庭でペスカの味を楽しめると需要が高まり、店の赤字を補って、さらにお釣りがきました。

―ワクワクしますね。

結構、ヒヤヒヤでした(笑)。

でも、ピンチのときにGIS(群馬イノベーションスクール)の同期だったり、仲間だったりが手を差し伸べてくれた。常温の棚では売れない、手のかかる商品なのに置いてくれたドラッグストアの経営者もいた。ありがたいことです。

▲起業仲間は友情に熱い。宮崎雄一さん、松本健さん、小林新一さん(左から)

熊本で起業、成功と失敗

―宮崎さんは熊本市出身。なぜ、前橋市に。

地元ではちょっとした顔でした(笑)。最初はパティシエをしました。手先が器用なので、あまり努力をしなくても簡単に上手く作れた。国内最高峰のジャパンケーキショーに九州代表として出場し入賞しました。ちやほやされ、天狗になりましたね。

夜のお遊びも盛んで。ラッパーのチームを作ってイベントを開くと、クラブに一晩で5、600人が集まる人気でした。

―二刀流ですね。

でも、どちらも中途半端だった。

ラップは遊びと割り切っていたし、パティシエの仕事も8年やったけど夢中になれなかった。他人に使われるのではなく、自分で何かしたいと、パニーニをキッチンカーで販売する仕事をしました。

―初の起業は成功したのでしょうか。

売り上げはそこそこあった。でも、経営の勉強をまったくしてなかったので、売上金でパッと飲んでしまう。次の仕入れ分まで使ってしまうから、商品の質を落とすことになり、じり貧でした。

―次の一手は?

熊本から韓国までは40分で行けます。2泊3日で2万円くらい。当時ブームだった、アムラーが着るような洋服やヒップホップブランドがすごく安く売っていたのに目を付けました。

月に4回ほど買い付けして、ヒップホップの後輩たちに販売させた。ダンサーやスケーターが集まる公園などに車で行くと、結構よく売れる。1日に50万円売る子もいました。まだウォンが安くて、原価は1割くらいだったでしょうかね。

―順風満帆でしたね。

欲が出て、店舗を構えたくなりました。商品も本物、いい品を売りたいと考えるように。

ニューヨークに行って、ハーレムやブルックリンでしか売っていないマニアックな洋服を仕入れてきた。だれも知らないブランド品です。

―当たりましたか。

大誤算でした。お客さんの求めているものとは違っていた。思ったほど売れず、借金が膨らんでいきました。そんな最中、頼まれて保証人のはんこを押した先輩の会社が倒産してしまい、自分も店を畳まなくてはならなくなって。

▲熊本時代はパティシエで名をはせた宮崎さん

―それで、群馬県に来たのですね。

はい、土木業をしていた叔父を頼り、高崎で働きました。28歳のころです。親に借金を返すため、20歳そこそこの若い子に仕事を教えてもらい、ひたすら働いた。悔しかったけど、いい経験でしたね。

3年くらいして、いまのカミさんと出会い、子供が生まれた。このまま借金を返すだけの人生ではこの子に男の背中を見せられないと悩みました。

自分がやりたいことは何か。ノートに書きなぐった。「みんなを喜ばせたい」と。すると、パティシエをやっていたことをぱっと思い出した。俺にはケーキがあるじゃないかと。高崎のイタリア料理店でケーキを作る仕事に就きました。

不惑の再チャレンジ

―いまにつながりますね。料理もそこで覚えたのですか。

前の反省を生かし、だれでもできる仕事をだれもできないくらいやろうと誓いました。仕事部屋を毎日ピカピカに掃除して、隣の部屋やホールも掃除し庭木や街路樹も剪定した。

料理も覚え、経営も学びました。8年ほど働いて借金を返し終わった時、女房の叔父さんの援助を受け、独立しました。40歳の時です。

―不安はありませんでしたか。

建物を担保に金融機関から4500万円借り入れました。めちゃくちゃ怖かったですよ。でも、「たくさんの人を幸せにする=ハピネス」という理念を定め、こんな贅沢な幸せはない、幸せの連鎖を作るんだと自分に言い聞かせてきました。

店のトイレはいまでも社長の自分が便器に手を突っ込んで掃除しています。スタッフ用のトイレは店長の担当。お客さんのおかげで店は回っていけているし、スタッフがいるから店長でいられるわけですから。

▲店のトイレは社長自ら感謝の気持ちを込めて手洗いする

―地域に愛される店になり、2017年には前橋駅前に2号店を出しました。

前橋駅前が寂しかったですからね。県庁所在地の玄関口とは思えない閑散とした場所でした。一市民として、何とかお役に立ちたいと思いました。

―GISに入ったきっかけは何でしょうか。

社長になって師がいなくなった。人生の師がほしいと思っていたところで、田中仁さん(ジンズホールディングス社長)の存在を知り、田中さんが主宰するGISに絶対に入りたいと熱望しました。

とても勉強になりましたし、1期生とのご縁は自分の財産です。仕事以外に仲間ができ、心強いし刺激になります。

▲全国区になったペスカのドレッシング

▲ペスカ本店はピッツァの食べ放題で人気

みやざき・ゆういち 1972年、熊本市生まれ。パティシエや軽食、衣類の小売業を経て、2013年、前橋市にイタリア料理店「ピッツェリア・ペスカ」を開店する。17年、JR前橋駅南口に2号店を出店。HAWORD代表取締役。