interview
聞きたい
【聞きたい樺沢和佳奈選手▶1】
パリの借りはロスで返す
2025.05.10
「日の丸を背負って世界で戦いたい」。中学時代に描いた夢を2024年のパリ五輪で実現させた。有言実行の芯の強さは「魂の1周」と称されるラスト勝負に生かされる。不完全燃焼に終わったパリ。マラソンに転向し、ロサンゼルスで借りを返す。
中学で運命の恩師と出会い
――陸上競技を始めたのはいつからですか。
小学校高学年です。前橋陸協のクラブに入り、敷島公園にあるトラックで練習していました。当時は県大会に出て勝てればうれしいな、くらいの感じ。それが目標でした。
水泳も習っていて、小学5年のときは平泳ぎで全国3位になりました。
勉強も好きで、弁論大会で「医者になりたい」なんて話したこともありましたね。
でも、中学に入り、陸上一本に絞りました。
――前橋富士見中の陸上部顧問をしていた加藤雅史先生の存在が大きかったのでしょうか。
そうですね。陸上を本気でやろうと決めたきっかけとなった先生、師匠でした。
中学2年、3年と連続して全国中学校駅伝で日本一になることができました。
「将来は日の丸を背負って世界で戦いたい」と口にしていました。
▲前橋富士見中を3度の日本一に導いた加藤監督
――どんな指導だったのでしょう。
温和な方でした。決して怒ったりとかしなかった。
私自身が自分で考えたいタイプでした。中学のころから。練習方法を調べるのも好き。自分で考え、自分で決めたことなら、自分に責任が生まれ、最後まで頑張れますから。
もちろん、未熟な中学生ですから、アドバイスはたくさんしてもらいましたが、手取り足取りではありません。指導を押し付けられたことはなく、私の考えを尊重していただき、最終的な判断は任せてもらいました。
高校、大学、そして実業団と陸上を続けてこられたのも加藤先生のおかげだと感謝しています。
マラソンで勝負する
――2024年9月、パリ五輪の女子5000㍍に日本代表で出場しました。夢がかないましたね。
うれしかったですね。出場が決まったのがオリンピックの1カ月前で、「信じられない」といった驚きもありました。
ただ、オリンピックに出場するために2年間、レースに出場し続け、万全なコンディションとは程遠かった。足も痛めていました。
――結果は自己記録に及ばず、目標としていた決勝には進めませんでした。
壁は厚かった。自分の走りができませんでした。実力を出し切れず、悔しい気持ちでいっぱい。
レースが終わって、すぐにリベンジを誓いました。オリンピックの借りはオリンピックでしか返せない。「パリの借りはロスで返す」と。
▲マラソン転向を決めた樺澤選手=東京・町田市の三井住友海上グラウンド
――ロサンゼルス五輪もトラック競技での出場を目指すのですか。
マラソンで勝負するつもりです。長距離をやっている身としては憧れであり、1回はやってみないと引退できません。
まだ、30㌔以上の距離を走ったことがないので、やってみないと分かりませんが、狙います。
――トラックよりマラソンの方が日本人には向いていますね。
はい、パリで目の当たりにしました。男女とも入賞しました。5000㍍や10000㍍では外国人選手と縮められない差があるけど、暑い中のマラソンなら粘り強く走れば勝機はあります。
初マラソンの時期は未定ですが、オリンピックの2年前までには日本代表の選考競技会となるMGC(マラソングランドチャンピオンシップ)を走らなければなりません。
――五輪の前に今年9月には世界陸上、来年はアジア大会が日本で開かれます。
自国開催ですから、両方ともぜひ出場したい。
世界陸上は5000㍍に照準を合わせています。参加標準記録(14分50秒00)を切るには自己ベスト(15分18秒76)を大幅に更新する必要があります。
7月に開かれる日本選手権でも上位に入らないといけません。自分の持ち味であるラストスパートに磨きを掛けます。
アジア大会はトラックになるか、マラソンになるか。そのときの自分の状態次第でしょう。
世界陸上、アジア大会と弾みをつけて、ロサンゼルス五輪へと駆け抜けていきたいですね。
樺沢和佳奈(かばさわ・わかな)1999年、前橋市生まれ。前橋富士見中-常磐高-慶應大総合政策学部卒。全国中学校駅伝は2年連続優勝、高校時代は3年連続で全国高校駅伝に出場する。2020年東京オリンピックの聖火ランナーを務め、パリ五輪出場を果たす。


