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学びたい
【みやま文庫ものがたり
1】
みやま文庫という宇宙
2025.02.21

〈ビクターの犬そっくりに座って、頭をかしげ、不思議そうに夜空を見上げて動かない〉
随筆家、武田百合子さんの『犬が星見た ロシア紀行』(1979年、中央公論社刊、1982年に中公文庫)に出てくる言葉だ。夫の武田泰淳とその友人で中国文学者、竹内好のロシアへの旅に同行してつづった旅日記だ。もう何度読んだろう。
あとがきによれば、「犬が星見た」の犬とは、この不思議そうに夜空を見上げるビクターの犬=武田さんのこと。
ビクターの犬は説明するまでもないが、かつてあった電機メーカー「ビクター」のトレードマークで、円盤型蓄音機に耳を傾けるあの犬だ。もとになったのは、亡くなった飼い主の声を不思議そうに聴いている姿を描いた絵だという。
〈まことに、犬が星見た旅であった。楽しかった。糸が切れて漂う如く遊び戯れながら旅をした〉
二人の文学者と著者の旅路が鮮やかに浮かんでくる。
(みやま文庫編集長 藤井浩)
森羅万象を取り上げる
みやま文庫をひとことで紹介するなら、何と言えばいいだろう。
昨年、みやま文庫の案内ポスターを作り直すことになり、頭を悩ませた末にふと浮かんだのが、「犬が星見た」だった。
250冊に上るみやま文庫の蓄積を前にした人が、ビクターの犬のように、そこから聞こえてくる著者や編集者の声に耳を傾けている、そんなイメージだ。
それをもとに、みやま文庫の特質として「ぐんまの歴史・文化を未来に伝える」ことを最初に挙げ、取り上げるテーマについてこう書いた。
「地域の歴史・文化を軸に、自然、宗教、産業からスポーツまで、群馬のあらゆるもの、出来事、いわば森羅万象です」
「森羅万象」とは「宇宙間に存在する数限りない一切のものごと」(『広辞苑』)。つまり、群馬という限られた地域、さらには地球全体を飛び越えて、宇宙にあるものすべてを指す。
こんな言い方をすると、大げさすぎる、とお叱りを受けるかもしれない。だが、まぎれもない実感である。
案内ポスターの右上には、積み重ねられた本の上に立つ人物が描かれている。手にしているのは望遠鏡だ。夜空の星を見ているのか、もっと遠くにある何かを探っているのか。
みやま文庫の既刊本を目にするたびに、夜空を見上げ、満天の星々に圧倒されたときと同じ思いを抱いてきた。

▲みやま文庫編集長、藤井さん
萩原進さんの精神
なぜ、そう感じるのか。
結論から言えば、みやま文庫の創設者で群馬の代表的な郷土史家である萩原進さん(1913-1997年)の精神がそれを促してくれるのである。
「森羅万象をとらえること」。これが、萩原さんが発案当初から目指した理想の姿であり、もう少し踏み込めば、萩原さんの研究者としての姿勢、生き方が、今に至るまで、みやま文庫の基本になっている、そのように私は受け止めている。
その理由を知ってもらうためには、萩原さんの生い立ちから始まり、独自の研究姿勢と、膨大な量の著作の特質と歴史・文化に関わる運動についてを語る必要がある。
それはこれから少しずつ紹介していくとして、今回はその導入部だけにとどめたい。

▲萩原進さん
郷土史の巨人 百年に一人の研究者
萩原さんを「郷土史の巨人」と表現し、「群馬で100年に1人でるか、でないか」の人物とたたえたのは共愛学園前橋国際大学名誉教授の石原征明さんである。
萩原さんが残した仕事をたどると、その言葉に納得できる。83歳の生涯で出版した編・著書は180冊を超える。その質、量ともずば抜けているが、特に研究分野の幅の広さにおいては、これまでの群馬の歴史家、研究者で並ぶ人はいないし、全国でも稀だろう。
考古から近現代史、文化、宗教、民俗、芸能、経済、事件、騒動、社会、人物……取り組んだテーマを挙げていくと、きりがない。あらゆることが、萩原さんの研究対象となり、生涯にわたって貪欲に歩き、調べ、書き続けた。
著書に未収録の新聞、雑誌への寄稿も底知れない数だ。過去の歴史だけではなく、現代の社会問題にまで積極的に踏み込み、論考によってあるべき姿を提言し続けた。優れたジャーナリストによる言論活動である。
文章、発言を一つ一つとらえていくと、その成果は、郷土史家、研究者の仕事という枠には到底収まらないスケールと奥深さをもっていることに気付かされる。
萩原さんが、みやま文庫の構想を立て、曲折を経て設立に至った1961(昭和36)年春、萩原さんは47歳だった。群馬県議会図書室長を務めながら、数々の著書を次々と刊行し、『高山彦九郎全集』『県議会史』などの編纂にも当たっていた。
そんな萩原さんが満を持して立案し、形にした文化事業が「みやま文庫」だった。その経緯、事業に込めた思いについては次回から詳述したい。
もちろん、みやま文庫は萩原さん一人で設立されたわけではない。数多くの賛同者が深く関わり、発足の段階から試行錯誤している。しかし、刊行されたみやま文庫を見ていくと、その基本に、萩原さんの仕事と共通するもの、テーマの幅の広さ、そして社会を総合的に捉える姿勢がある。萩原さんがみやま文庫で目指したもの、「森羅万象をとらえようという夢」が、そこに見えてくる。

みやま文庫
会員制の出版文化団体として1961(昭和36)年に発足。群馬県の歴史、文化、自然、産業、スポーツなど、郷土に関するさまざまな分野の図書を編集、発行している。全国的にも公共が関与した会員制の文化事業は珍しく、1992年には地域の文化振興に尽力した功績により、文部大臣表彰を受けている。会員数は2024年8月末現在で656人。
会員の減少で存続が危ぶまれるなか、2024年春から朝日印刷工業が事業運営を委託され、改革に取り組んでいる。2025年2月に発行された最新刊は『謎解き 臨江閣』(小島純一)と『前橋復興の恩人 安井与左衛門』(野本文幸)の2冊。刊行数は253巻となった。購入、入会申し込みはみやま文庫事務局(tel 027・232・4241)へ。
藤井 浩(ふじい・ひろし)
1955年、前橋市生まれ。慶應義塾大学文学部卒。上毛新聞社で記者、論説委員長として主に歴史・文化の分野を担当した。文化誌「上州風」を立ち上げる。2020年から萩原朔太郎研究会幹事長。上武大学特任教授を経て、2024年、みやま文庫編集長に就任。