interview
聞きたい
前橋国際芸術祭
日常が「異界」に変わる壮大な仕掛け
2026.08.06
次の小説の題材を探しているところ、『前橋国際芸術祭』の記事を見つけたのは、たんなる偶然だった。アートで地方を変える、という試みは珍しくない。だがその顔ぶれを調べてみると、世界を舞台に活動する錚々たるアーティストの名前が並んでいて、思わず目を疑った。いったい誰が、群馬県前橋市でこんなことをしているのかと気になって調べるようになった。総合プロデューサーは、ジンズホールディングスCEO・田中仁氏。前橋出身の実業家であり、日本のアイウェア市場を塗り替えた人物だ。その名前を知って、さらに興味が増した。インタビューの機会を得て、前橋へ向かった。話を聞きながら、ふと気がついた。田中氏の語る言葉と、前橋が生んだ詩人・萩原朔太郎の『猫町』が、奇妙に重なっている。同じ街を原風景に持つ二人の男が、大正から令和という長い時を隔てて、似た眩暈を見ている。これは町おこしの話だけではなく、前橋という土地が仕掛けた、壮大なシンクロニシティの物語かもしれない。
(作家・尾崎英子、撮影・栁田光一)
萩原朔太郎が描く『猫町』と田中仁氏の原体験、
前橋出身の二人に起こるシンクロニシティ
「日本近代詩の父」と呼ばれる前橋出身の作家、萩原朔太郎の代表的な短編『猫町』には、見慣れた街を歩いていた主人公が、ふと世界の反転に気づく場面がある。
いつも左にあったものが右にある。よくよく見ると、街を行き交うのは人ではなく猫だ。
日常だったはずの風景が、一瞬にして「異界」へと変わる——そんな寓話を、ジンズホールディングスCEOであり、前橋国際芸術祭・総合プロデューサーである田中仁氏に重ねずにはいられなかったと伝えると、
「なるほど、面白いですね」
田中氏は少し腑に落ちたように頷いた。
シュールな商店街を目にして、
はじまった『攪拌』
東京を拠点に世界で活動していた田中氏が、ふたたび前橋の商店街に通うようになったのは2012、13年頃。
群馬イノベーションアワードの準備で足を運んだ日曜日、目にしたのは誰ともすれ違わない商店街だった。
それはあまりにもシュールな世界であったと、と田中氏は振り返る。
「子供の頃、肩がぶつかるほど人で溢れていたアーケード街だったんですよ。それが、日曜日のお昼だというのに、誰もいない。シャッター街といっても開いている店もある。それなのに、誰もいないという光景があまりにも衝撃的で、ある種の『異界』として目に映ったかもしれない」
生まれ育った街に戻ってみると、そこは、知らない世界として立ち現れた。
まさに『猫町』的な反転体験だったのではないか。
すっかり変わり果てた故郷に愕然としながらも、田中氏はそこに新しい街おこしの可能性も感じたのだと話す。
「私は撹拌をしているんですよ」
田中氏はそう表現する。
「動きのなかった前橋という街に、外部のアートや文化を混ぜていくことで、人々の中に変化が起こりはじめました。それまで目にしなかったものが前橋に置かれることによって、全員ではないかもしれないが、少なくとも一部の人間の中に、新しい気づきや、いい意味での刺激、また勇気が生まれたりしたんです。
そのうち、保守的な人たちの中にも変化が起こりはじめる。初めは反対していた人たちが、いつの間にかこちら側になっていたりするので、面白いなと。10年続けてきたからこそわかったことです」
廃業に追い込まれていた300年という歴史を持つ老舗旅館、白井屋ホテルの再生も、当初は数人の有志ある人に頼まれたことがきっかけだった。
「一人だったらやらなかった」と本人は笑うが、前橋という街は、いま着実に大きなうねりをもって動き始めていた。
はじめた当初は理解者が数人、あとは全員がアンチだったという苦境の中、それでも続けてきた理由を尋ねると、明確な答えは持っていないのだと不思議そうに首を傾げる。
「山登りする人が、なんで山に登るのかと聞かれて、そこに山があるからだと言うじゃないですか。それに近いかもしれないですね」
経営と街おこし、根はひとつ
ジンズホールディングスを25年でアイウエア業界の日本一にまで築き上げた原動力も、根は同じだという。
「人がやらないことをして、まったく新しい価値を生み出すことに注力する」という発想。
CEOとしての田中仁と、街おこしをする田中仁は、少しの迷いもなく一本の線でつながっている。
閉鎖的になりがちな地方と、無機質になりがちな都会。そのどちらでもない「適度な、有機的な繋がり」を、田中氏は模索し続けている。
前橋国際芸術祭に集う作品のほとんどはコミッションワーク——つまり前橋そのものを読み解くために生まれた作品だ。世界のアーティストの視点を通して、住民自身も知らなかった前橋に出会う。その小さな出会いの積み重ねが、地方特有の強固な人間関係を少しずつ緩め、街の空気を変えていく。
その前橋モデルとも呼ぶべき独特な空気感を求めて、無機質な都会から誘われる人も増えていた。
それでも「前橋モデルはまだ成功しないままです」と、田中氏は正直にそう語った。
「名前は少し売れるようになったと思っています。だけど、企業や人が集まり、地価が動くところまでは、まだ届いていない。まだまだ、これから。だからこそ次のスイッチが、これなんです」
これとはつまり、前橋国際芸術祭だ。
元の世界には、もう戻れない
よく知っているはずの街に、外の世界の異質な「アート」を融合させる。
それによって、日常の中に一瞬だけ「異界」を立ち上げる——前橋国際芸術祭とは、いわば人々に『猫町』体験をさせる仕掛けなのではないだろうか。
『猫町』の主人公は、猫の大群が行き交う「異界」を目にしたあと、再び元の町並みへと戻ってくる。だが、「異界」を知ってしまった主人公にとって、目の前の町はもう、以前と同じ「元の世界」ではありえない。
誰もいなくなったシュールな商店街を歩いた一人の経営者が見た『猫町』は、今、街全体を巻き込む壮大な物語になりつつある。
この街のためだけに生まれるコミッションワーク——それは、住民自身がまだ出会ったことのない前橋を映し出す鏡になる。
前橋国際芸術祭は期間が終われば、街は表向き元の日常に戻るだろう。しかし、そうではないはずだ。
一度「異界」を目にした人々の心に起きる変化は、きっと一過性のものでは終わらない。
日常が「異界」に変わるその仕掛けを、この秋、前橋で体感したい。
尾崎英子(おざきえいこ)
1978年大阪府堺市生まれ。2013年に『小さいおじさん』で第15回ボイルドエッグズ新人賞を受賞し作家デビュー。小説、エッセイ、脚本など幅広く執筆している。『きみの鐘が鳴る』で第40回うつのみやこども賞を受賞。


