interview
聞きたい
【野村たかあきさんの思い出】
藤井浩さん追悼文「でくの房主人が願ったこと(上)」
2023.11.08
平凡な日常を何より重視
おもねることない反骨心
木彫・絵本作家で木版画家の野村たかあきさんが亡くなったことを、今も現実の出来事と受け止めることができないでいる。生み出された作品にどれほど多くのことを教えられ、勇気づけられたことだろう。
ここで絵本や鬼の木彫り、木版画など多岐にわたる活動のすべてを紹介することは叶わないが、ほかの誰にもできない手法を貫き通した野村さんの、創る喜びに満ちた仕事の一端だけでも書きとめておきたいと思う。
自宅に設けた木彫・木版画工房を「でくの房」と名付けたように、作品でも、人との関わりにおいても、けっして誰かを押しのけたり、声高に主張したりすることはなく、穏やかに、自然体で語りかけるのが常だった。作品から伝わるのは、平凡な日常を何より重んじる姿勢と、時流におもねることのない反骨心である。
普通のもの、つくっていたい
東日本大震災被災地で再認識
東日本大震災から3年後の2014 年、野村さんにじっくり話を聞く機会があった。かつてない災禍に、でくの房主人は心をどう動かされたのか、ぜひ知りたいと思ったからだ。
野村さんは大震災直後に友人たちのいる被災地を訪れ、その惨状を目の当たりにして感じたことを、次にように語った。
「経験したことのない大きな衝撃でした。そこでまず考えたのは、これまでやろうとしていたことの意味は何だったのだろう、ということでした。ずっと、普通のものをつくっていたい、という思いがあって、そのことを再認識することができた。本当に大切なのは、ドラマチックなものではなく、ふだんの何でもない日常の風景なんですね」(インタビュー記事は「表現者たちの3・11 」と題して2014 年3月19日付上毛新聞に掲載)
1983 年、34 歳のときに初めて出版し、第5回講談社絵本新人賞を受けた版画絵本『ばあちゃんのえんがわ』(講談社)を読むと、この言葉の意味がよく分かる。日あたりのよい縁側にいるばあちゃんのところに、猫やお嫁さん、近所のじっちゃま、孫のこうへいたちが集まってにぎやかに過ごす、という平凡な日常のひとこまを描いている。
しかし平凡なのに、というより平凡だからこそ読む者の心を揺さぶる何かがこの絵本にはあった。木版画の柔らかな線が、縁側のぬくもりと和やかな空気を確かに伝え、ゆるやかに流れる時間が、実はかけがえのない豊かなものだということを実感させてくれるのだ。
驚かされるのは、野村さんがその後手掛ける数多くの仕事の基本にある考え方がすでにここに集約され、独自の手法も存分に使われていることだ。第一作でなぜ、このようなことができたのか。
最も大切に思う家族を描く
日なたぼっこのかけがえのなさ
前橋の養蚕農家の長男として生まれ、円空の木彫りの仏像に惹かれて15 歳で木彫を始めた。木版画に取り組むようになったのは、26 歳のときに初めて開いた木彫りの個展で、壁面を飾るため畳一畳の大きさの版画を急遽制作したのがきっかけだった。
『ばあちゃんのえんがわ』のもとになった木版画は、勤めていた会社を辞めて創作に専念しようとしたとき、幼かった長男に自分の仕事を見せるために制作したという。
ばあちゃんのモデルは、大好きだった実の祖母である。縁側も祖母の家のものをそのまま描いた。最も大切に思う家族、愛着のある場所を選んだのだった。
当たり前のように見える人の生き方、普通の生活の中にこそ普遍的な感動があるー。絵本に出てくる人々の素朴な笑顔を見ていると、そう確信して版木に彫り込む野村さんの姿が浮かんでくる。
絵本を出してから30 年近く後、東日本大震災の被災地で野村さんの頭を離れなかったのは、ばあちゃんたちが縁側で日なたぼっこをしている風景だった。
「大事な人を失い、原発事故で生まれ育った場所にいられなくなった人たちが一番求めているのは、この風景なんじゃないか」。そう痛感したという。
野村さんの「普通」はしかし、時にその言葉の枠をはずれることがある。
ふじい・ひろし
1955年、前橋市生まれ。慶應義塾大学文学部卒。上毛新聞社に42年間勤め、記者、論説委員長として主に歴史・文化の分野を担当した。2020年から萩原朔太郎研究会幹事長。