【聞きたい萩原さん2】
「朔太郎の孫」嫌だった。文学館で乗り越える

「萩原朔太郎の孫」。そういわれるのが嫌だったという。祖父に抗うように詩を書くことはせず、朔太郎にかかわる仕事は一切タッチしてこなかった。俳優、演出、映像制作、エッセイ…。違う分野で活躍してきた。5年前、「朔太郎記念」の前橋文学館館長になった。呪縛から逃れ、新たな大仕事に挑む。

―朔太郎を祖父に、作家の葉子を母に持ちました。言葉を大事にし、言葉を生業にしてきた人と身近に接してきました。
 祖父や母からの影響はまったくないです。影響があるとすれば詩を書かない、小説を書かないと決めたことです。
 ―詩や小説を書くように求められませんでしたか。
 母は男は仕事をしなさいと言ってました。勤めをしなさいとか、お金を儲けるとかではなく、アースティックな表現者になりなさいという意味です。
エッセイは文学だとは認めませんでした。小説を書いてくれというプレッシャーはありましたね。本は20冊出しているけど、母の言う文学はありません。雑文家ですから、私は。詩も書きませんでした。書いたけど、あまりに下手でした(笑)。
 演劇をやったり、映像や版画もやりました。全部、母親と祖父がやった以外の仕事なんです。
 ―「朔太郎の孫」という意識は。
 「朔太郎の孫」と言われるほど嫌なことはありませんでした。朔太郎の仕事は一切タッチしてこなかったですね。不愉快でした。でも、70歳過ぎて、いつまでも嫌いだなんていうのは大人気ない、と思ってここ(文学館)に来たんですよ。
 いまでも不快だと思っています、実は。ここに来たら「孫」としか言われませんから。嫌なんだけど、それを乗り越えるには、文学館の仕事が楽しいと思わなければいけないわけです。
 それで、朔太郎大全を言い出したんですよ、私が。嫌いだったけど、大全をやることで乗り越えられるんじゃないかと。いまでは詩を読んでも平気になりました。
 ―前橋女子高校新聞部の「MJHジャーナル」2021年3月1日号で、「子供ができたら読み聞かせをしてほしい」と呼び掛けていますね。
 私は本が大嫌いで一行も読まない人でした。読むようになったのは二十歳を過ぎてから。活字嫌いで、国語のテストはずっと零点だったな。ただ、小学生のころ、風邪で寝込むと、叔母が岩波の世界少年少女文学全集を読んでくれました。母は読んだことはありませんでした。
 「天井桟敷」で美輪明宏さんの息子役で出演したとき、婦人公論から体験記を書いてと依頼されました。原稿用紙15枚くらい。生まれて初めて机に座って書いたら、書ける。ものすごく面白くて。俺、天才かなと思っていました(笑)
 ―読み聞かせとの関係がありますか。
 60歳くらいのころかな、電車に乗っていて吊革にある文豪の言葉を見つけました。「子供のころに読んだ文章のリズムはずっと覚えていて、将来、文章を書くときに役立つ」という内容でした。涙が出てきましたよ。叔母に読んでもらったことで、すらすらと文章が書けたんですね。

自動からくり人形と朔太郎と
「ムットーニのからくり文学館」

自動からくり人形作家のムットーニこと武藤政彦さんの企画展。「ボックス・シアター」という箱の中で数分間から十数分間の物語が上演される。武藤さんは萩原朔太郎の詩を愛し、数々の詩を独自の解釈で作品化。今回は「恐ろしく憂鬱なる」からインスピレーションを受けた新作「アンダー・ザ・ウッズ」を初公開している。

・会 場 前橋文学館
・会 期 来年1月16日まで
・時 間 9時~17時
・休 館 水曜日、年末年始
・観覧料 一般500円(高校生以下無料、障害者手帳のある人と介護者1人は無料)


萩原朔美(はぎわら・さくみ)

1946年11月、東京都生まれ。寺山修司が主宰した「天井桟敷」の旗揚げ公演で初舞台を踏む。俳優の傍ら、演出を担当し映像制作も始める。版画や写真、雑誌編集とマルチに才能を発揮する。2016年4月から前橋文学館館長。

関連記事