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聞きたい

【聞きたい萩原さん3▶︎】
寺山修司、ビックリハウス。前橋文学館でも「お祭り」を

2021.08.13

【聞きたい萩原さん3▶︎】
寺山修司、ビックリハウス。前橋文学館でも「お祭り」を

「萩原朔太郎の孫」。そういわれるのが嫌だったという。祖父に抗うように詩を書くことはせず、朔太郎にかかわる仕事は一切タッチしてこなかった。俳優、演出、映像制作、エッセイ…。違う分野で活躍してきた。5年前、「朔太郎記念」の前橋文学館館長になった。呪縛から逃れ、新たな大仕事に挑む。

―寺山修司さんが主宰した「天井桟敷」の旗揚げに参加しました。若いころは役者や演出家として活躍されましたね。

寺山さんは47歳で亡くなりました。11歳上です。30代で劇団作って。ものすごく大人に見えましたね。寺山さん世代がみんな一気に川を渡って行っちゃったのです。ヌーベルバーグの連中が。映画監督も小説家も。建築家やデザイナーもそうでしたね。大島渚、石原慎太郎…。われわれは川を渡れなかった。
寺山さんは現代アートに詳しかった。弘前の出身で青森弁を使ったけど、あれはタモリがいう通り、演技ではないかな(笑)。近くに米軍基地があってコーラ飲んでハンバーガー食べていたんですよ。青森弁じゃなく、英語で育っていた。嘘八百なんです(笑)。そこがすごい。自分のことをフィクションで消しているんです。消す作業をずっとしてきたんです。

 ―どんな人でしたか。

寺山さん、アパート暮らしでした。6畳と3畳の二間。何百作も書いているのに金はない。全部、映画や演劇につぎ込んだ。医師からきょう入院しないと死ぬといわれても撮影現場に来て寝ながら仕事した。そのまま亡くなりました。そういう人です。日常生活では幸福を見いだせませんでした。

 ―「ビックリハウス」を創刊しました。70年代から80年代にかけて渋谷系サブカルチャーを生み出しました。

パルコ出版に企画書を持って行った。本当は映画や演劇の情報誌をやりたかったけど、だめ出しされた。3回目のプレゼンで通り、月刊誌を100万円でやれと。株式会社を友達3人で作りました。お金は飲みまくって、すぐに使いました。大変だったな、飲むの(笑)。
で、金がないので、私の家を編集室にして仕事しました。毎月100万円きて、何とか自転車操業でやっていけました。15年やりました。10年目にスタッフが30人になった。楽しかったですね。

―「読者の上に読者を作らず、読者の下に編集者を作る」のもと、投稿を柱にして爆発しました。

あれは、原稿料を払わなくて済むから。企画だけ考えて、投稿を編集するだけ。アイデアと編集技術だけです。ヒットするとすごいですね。ハガキが段ボールで届くんです。今も残っているのが『御教訓カレンダー 3日坊主めくり』。よく残ってますね。
あるとき、投稿を使ってはがきの原画展をやろうとなった。並べるだけでお金かからないんです。会場も渋谷のパルコだし。で、日本パロディー展と名付けた。第1回と付けて。何か公的な、本物のような感じがするでしょう。
そうしたら来ましたよ、人が。パルコの6階から1階まで行列です。公園通りにまで並びましたよ。「勝った」と思いましたよ。「1番取った」と。こういう企画が何回か当たって、萩原たちは何でもやっていいことになったんです。いろいろ楽しいことしましたね。

―前橋文学館でもお祭りしたいですね。

1回でいいから爆発したいです。お客さんが朝から並んで、交通整理が必要になってしまう。そういう企画を実行して、「やった」と叫びたい。それが目標です(笑)。

自動からくり人形と朔太郎と
「ムットーニのからくり文学館」

 

自動からくり人形作家のムットーニこと武藤政彦さんの企画展。「ボックス・シアター」という箱の中で数分間から十数分間の物語が上演される。武藤さんは萩原朔太郎の詩を愛し、数々の詩を独自の解釈で作品化。今回は「恐ろしく憂鬱なる」からインスピレーションを受けた新作「アンダー・ザ・ウッズ」を初公開している。

 

・会 場 前橋文学館

・会 期 来年1月16日まで

・時 間 9時~17時

・休 館 水曜日、年末年始

・観覧料 一般500円(高校生以下無料、障害者手帳のある人と介護者1人は無料)

萩原朔美(はぎわら・さくみ)

1946年11月、東京都生まれ。寺山修司が主宰した「天井桟敷」の旗揚げ公演で初舞台を踏む。俳優の傍ら、演出を担当し映像制作も始める。版画や写真、雑誌編集とマルチに才能を発揮する。2016年4月から前橋文学館館長。